【短編小説】 プレゼント


何度来ても慣れない部屋だ。かれの部屋に愛着が湧かないのは明らかに物が欠如しているせいだった。椅子が一脚あるだけで、机もベッドもなかった。部屋のすみに寝袋がまるめられて、雑に放置されてある。ベッドで眠る必要性を感じないんだ、とかれは言った。

かたい床で眠っても、疲れはとれないと思う、とわたしが考えを述べると、

「疲れるくらいに真剣に、なにかに取り組んでみたこと——っていうのが僕にはないんだ」とかれは応えた。話を聞く限りでは、かれは仕事をしていないみたいだった。ファミリーレストランやガソリンスタンド、コンビニエンスストア、工事現場などを転々としたと言う。しかしどれも長くは続かなかった。1日か2日だけ出勤して、蒸発してしまうことがほとんどだった。1日か2日分の給料が入った袋を、もらわないまま辞めてしまうこともあった。人生における面倒ごとをどれだけ排していけるかどうか——それは僕にとってとても重要なことなんだ。お金よりも、重要なことなんだ。とかれは言った。

写真であるとか映像であるとか、かれのクリエイティブな分野で生活を賄いきるのは無理があった。それでも、かれの作品はまれに——一年に一度か、二年に一度くらいのペースで——買い取られることがあった。そのたびにかれはまとまった額を手にした(とは言っても30万円くらいだ)。ひと度お金を手にすると途端に羽振りがよくなるかれを見ているととても心配になった。

かれが大きな電子ピアノを抱えて、わたしの家を訪ねてきたときは心底驚いた。それ、どうしたの? とわたしは訊ねた。「どうしたのって、プレゼントだよ」当然だろう、という顔をして、かれは居間でピアノを組み立て始めた。「欲しいって言っていたじゃない」

確かに、わたしはピアノのある生活を望んでいた。休みの日には、区の施設にある音楽室を30分単位で予約して利用していることも、かれに伝えていた。かれはわたしと一緒に行って、わたしの演奏を聞きたがったが、わたしはそれを許さなかった。ピアノを弾くとき、わたしはいつもひとりきりだった。

確かに、わたしはもっと身近なところに、ピアノがあったらどんなに素敵だろう、と考えていたし、その考えをかれに話してはいたが、ピアノをねだったつもりはいっさいなかった。

「嬉しくないの?」

とかれが訊いてくる。嬉しいのだけど……言葉にならない、なにかがわたしの気持ちを複雑にしていた。

「これはいくらしたの?」

わたしが訊くと、かれはとても満足げな顔をして、お金の問題じゃないよ、と言った。どれだけ訊いてみてもピアノをいくらで買ったのか、教えてくれなかった。
かれのことを帰らせたあとで、電子ピアノのメーカーと品番とを検索にかけた。メーカー希望小売価格は25万円だった。わたしはため息をついた。


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