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初めてシリアへ 『シリアの戦争で、友だちが死んだ』 戦場ジャーナリスト・桜木武史×『ペリリュー 楽園のゲルニカ』武田一義 【無料公開③】

好評発売中の戦場ノンフィクション『シリアの戦争で、友だちが死んだ』を、第一章から第六章まで公開いたします。毎週土曜日20時に、一章ずつの公開予定です。 公開済みの第一章・第二章はこちらから👇

本日公開するのは、シリアの民衆がなぜ自由をもとめるのか、その意味を考えさせられる第三章。あなたの戦争に対する考え方も変わっていくかもしれません。ぜひ、コメント欄やTwitterで感想を教えてください。

『シリアの戦争で、友だちが死んだ』
(文/桜木 武史 漫画/武田 一義)
紛争地を中心に取材活動をする著者・桜木武史がシリアでの体験を中心に綴るノンフィクション。紛争地取材を始めてからの大けがやシリアでの取材、大切なシリア人の友人を失った経験などを描き、なぜ戦場の取材を続けるのか、そこにはどんな悲劇や理不尽があるのかーー筆者ならではの目線で描く。コミックは『ペリリュー 楽園のゲルニカ』の武田一義。
小学生から大人まで。

桜木武史氏
1978年生まれ。東海大学卒業後、フリーのジャーナリストに。2005年11月、インドのジャム・カシミール州で戦闘に巻き込まれて右下顎を吹き飛ばされる。2016年に第3回「山本美香記念国際ジャーナリスト賞」を受賞。2017年TBS「クレイジージャーニー」に出演。著書に「【増補版】シリア 戦場からの声」など。普段はトラックの運転手の仕事をしながら、ジャーナリストの活動をしている。

武田一義氏
1975年生まれ。作品に、精巣腫瘍闘病の顛末を描いた『さよならタマちゃん』、第二次大戦のペリリュー島の前線を描いた『ペリリュー 楽園のゲルニカ』(既刊5巻)など。第46回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。

■第三章 初めてシリアへ

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初めてのシリア

 2012年3月、ぼくは初めてシリアを訪れた。インドでのケガも回復し、ジャーナリストとして復帰したあと、ひさしぶりに強く関心を抱いた取材先が、ここシリアだった。
 シリアの首都ダマスカスには、ニュースで報道されていたような混乱はなかった。カフェで会話を楽しむ若者たち、市場で野菜や果物を手に取る主婦、路上を走りまわる子どもたち、にぎやかで親しみやすい、そんなおだやかな雰囲気がダマスカスを包みこんでいた。
 外国人のぼくを見かけると、誰もが優しくむかえ入れてくれた。歩いているだけでぼくは人気者だった。道行く人たちに手をふられ、ときにお茶をご馳走になったり、日本人と聞いたとたん「Welcome to Syria!」と笑顔で握手をもとめられたりした。
 ちがう国や土地から来た人間を客人としてもてなすアラブ人の習慣にふれて、ぼくの心は温かくなった。果たして、本当にここで戦争が起きているのだろうか。ひと目見ただけでは、戦争どころか平和そのものである。

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 でも、インドのカシミールでの取材を思い起こせば、カシミールだって初めて訪れたときはふつうの観光地と変わらなく見えた。しかし、目の届かない場所では多くの人々が命を落としていたし、ぼくがその事実を目撃するようになったのは、現地の通信社から情報をもらうようになってからだった。きっと、どこかに何かあるはずだ。
 ただし、シリアはカシミールと同じようにはいかなかった。なぜなら、新聞社、テレビ局、すべてのメディアが政府の言う通りにしか報道しなかったからだ。「言論統制」といって、市民やメディアが自由に発言することができない状態だった。
 そのため、アサド政権に不利になるような情報は徹底的にかくされ、海外から来たジャーナリストも厳しく監視されていた。町中でジャーナリストだと口にすれば、すぐさま逮捕される恐れがあった。
 ぼくが最初にシリアでひどい目にあったのは、その「恐れ」を甘く見ていたせいだった。まずは、その話から始めたいと思う。

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恐ろしい「秘密警察」

 ダマスカスに到着して、まだ1週間も経っていなかった。ぼくはシリアに観光で訪れていた日本人の大学生とたまたま町中で知りあった。戦地で「観光」なんて言うと、変に思う人もいるかもしれない。ただ戦地とはいえ、アサド政権の厳しい取りしまりや監視がゆきとどく大きな都市では、まだそんなに治安が悪くなかったのだ。そんなこともあり、気がゆるんでいたぼくはひまつぶし程度の軽い気持ちで、かれと一緒にダマスカス市内を見てまわることにした。
 日が暮れた頃、大学生のかれがシリア国旗の前で足を止めた。かれは何枚かものめずらしそうにシリア国旗を撮影していた。
 そのとき、物陰からふたりの男が現れた。ぼくは少し先の歩道に腰を下ろしていたが、すぐに「やばい!」と感じた。ふたりの男は旅行者のかれの腕を手際よく後ろにねじり、そのままぼくの方に近づいた。にげれば余計に面倒なことになる。ぼくは抵抗することなく、かれと同様に捕まってしまった。
 シリアの国旗を堂々と撮影していれば、あやしまれるのも無理はなかった。そんなかれをぼくが注意すべきだったが、市内の平穏な空気にすっかりと油断していた。男はぼくとかれのふたりを強引に乗用車に乗せると、まわりの景色が見えないように頭を強く押さえつけた。これから向かう先の所在地を知られないためのようだった。
 どこに連れていかれるのか。
 ぼくは息を殺して車内でじっとしていた。車が止まった。男がぼくの腕をつかんで、外に引っぱり出した。ようやく顔を上げて外の景色を見ると、目の前には巨大なコンクリートの建物がそびえたっていた。
 シリアには秘密警察という誰からも恐れられている人たちがいた。警察は制服を着ているが、秘密警察は私服だ。かれらは国民を監視することが重要な任務のひとつなので、正体は誰にも明かさない。
 タクシーの運転手、清掃員、レストランの店員などに変装して、ふつうに一般社会の中にとけこみ、政府の悪口を言う者を密かに見張っている。まさに「壁に耳あり障子に目あり」である。もし冗談でも、何か政府を批判するようなことを口にすれば、拘束されて刑務所にぶちこまれる。
 ときには拷問され、ときには殺される。
 そのため、シリアの人々は公共の場では決して政治の話題は口にしない。いったい誰が秘密警察なのか分からないため、他人を信用しなくなる。
 近所の住人、友だち、ときには親戚や家族という身内にすら疑いの目を向けてしまう。これは、独裁国家ではしばしば使われる口封じの方法だった。どうやらぼくは秘密警察に捕まり、その本部へと連行されたようだった。
 巨大なコンクリートの建物に入ると、アサド大統領の肖像画が壁にでかでかとかかげられていた。ぼくと大学生のかれはこの施設で尋問を受けることになった。これまでも軍や警察に拘束されたことは何度かあったが、シリアの秘密警察は、中東でも人権を無視した厳しい態度、つまり残忍さで知られている。
 ぼくたちが秘密警察に捕まったことは誰にも知られていない。あっという間にぼくはこの建物に連れこまれたのだ。荷物の中にある携帯電話で外の人間、たとえば、日本大使館、宿泊先のホテル、誰かと連絡が取りたくても、常に監視の男によって、見張られていた。
 もしかれらに「こいつらは政府にとって都合が悪い人間だ」と思われたら、このまま殺されてしまうかもしれない。きっと「何かに巻きこまれて日本人が殺された」と適当な作り話をすれば、情勢が不安定なシリアでは誰も疑わないだろう。そう思うと、ぼくはじっとりと冷や汗が出てくるのを感じた。

始まった尋問

 尋問が始まると、ひとりひとり別々の個室に移され、「なぜシリアの国旗を撮影していたのか」と問いつめられた。
「ぼく自身は国旗を撮影するかれを見ていただけで、特に撮影はしていない。あの日本人とは、偶然町中で知りあっただけなんだ。何の関係もない」
 そう説明しても、尋問する男は納得している様子もなく、ぼくをじっと見つめていた。
「なぜシリアに来たんだ?」
 そう口にした男にぼくは「旅行目的です」と冷静に答えた。
 実際は取材だけど、自分がジャーナリストだとは口が裂けても言えなかった。そもそも正式にシリアで取材をするためには、事前にシリア政府に届け出をしなければいけない。ぼくはもちろん、そんなことはお構いなしに、こっそりと取材をするため、「観光」という名目でシリアにもぐりこんだのだ。「この写真は何だ? 今朝起きたテロの現場じゃないか?」
 ぼくのカバンからカメラを取り出し、写真をチェックしていた男が言った。「しまった!」とぼくは心の中で大声を上げた。
 カメラには爆弾テロで破壊された政府の施設の写真が入っていた。たまたまこの日の朝に大きな爆発があり、ぼくは現場を訪れてこっそりと写真を撮っていた。取材用に撮影した写真はすぐにバックアップをとり、こんなふうに捕まったときのために観光写真とすり替えておくのが常識だったが、テロが起きたその日に捕まるなんて思いもしなかった。
「お前、ジャーナリストだろ?」
 男の表情が険しくなった。心臓がバクバクと高鳴った。
もう冷や汗で体がビショビショである。秘密警察を警戒して、かなり慎重に行動しているつもりだったが、この日は大きな失敗だった。日本人と一緒にいたこともあり、気がゆるんでいた。
 男は取材用のメモ帳にも目を通した。
 幸いこれはすべて日本語で書いていたので、男はメモ帳をパラパラとめくり、関心がなさそうにデスクの上に放り投げた。でも写真を見られた以上、やましいことがあると思われないように、この場を切り抜けなければいけない。だまっていればますますあやしまれるので、ぼくはいちかばちかで演技をした。
 朝の爆弾テロは、アサド政権の独裁政治に反対する『反体制派』とよばれる人々によって行われたものだった。そこで、ぼくはこう言いはった。
「テロリストの卑劣な行為を日本にいる友だちに伝えたくて写真を撮ったのです」
 反体制派を「テロリスト」と呼ぶことで、アサド政権に同情し、支持する姿勢をよそおったのだ。
 実際にこのテロで政府の施設に勤めている職員が10名以上命を落としたし、まわりにいた一般市民も巻きこまれていた。だから、卑劣な犯行にはちがいない。でも、心の中では「あんたたちアサド政権が抗議のデモをする市民を暴力で弾圧しているから、テロが起きるんじゃないか」とも思っていた。もちろん、そんなことはおくびにも出さず、「テロリストの野郎! 政府の建物をねらうなんてひどい!」
と拳をにぎりしめて片ひざをたたいた。さらに、
「政府で働く人たちは何の罪もない人々じゃないか!」
と涙ながらにうったえかけた。
 すると、だんだん男の態度が変わってきた。男は「そうか。そうか」と何度もうなずき、その後は特に厳しく問いつめられることはなかった。
 一方、別室で尋問を受けていたかれは、すべての写真を消去されたのだと悲しんでいた。何かをあやしまれたのだろうか。そもそもかれがシリアの国旗を撮影していたのが原因で、ぼくまで捕まってしまった。だから、あまり同情する気にはなれなかったが、ぼくが撮影した写真は消去されず無事だったことを思えば、それほど大きな損はなかったかもしれない。
 でも、なぜぼくの写真は問題なかったのか。
 たぶん、ぼくがした演技――政府や秘密警察を支持するような発言をして、反体制派をテロリストだと非難したこと――によって秘密警察の男は安心し、ぼくのことを政府に害のない旅行者と判断したのだと思う。
 では、政府や秘密警察が言うように反体制派は無差別にテロを引き起こすテロリストなのだろうか。取材を始めたばかりのぼくだったが、それはちがうような気がした。
 最初かれらは政府に対抗するため、平和にデモを行っていた。それが政府の暴力によって弾圧され、その結果として政府への不満を抱いた一部の人々が、銃を手にしたのだ。政府から見れば、武装したかれらはテロリストにちがいないが、反体制派の側から見れば、民衆のデモを暴力で弾圧したアサド政権こそがテロリストだ。
 結局、ぼくたちは約8時間、深夜までつづいた尋問をたえぬいて、ようやく解放された。それでも、まだ完全に疑いが晴れていないのか、パスポートを一時的に取り上げられた。翌々日には返却されることになるが、ふだんは目に見えない秘密警察の存在を身をもって体験した、今となっては貴重なできごとだった。

小さな小さなデモ

 それにしても、どうすればシリア各地で起きている民衆によるデモを取材できるのだろうか。シリアには、独裁政権に反抗してでも自由を手に入れようとする人々が、必ずどこかにいるはずだった。
 しかし、ダマスカスはデモを封じこめるために警備をガチガチに固めている。へたに情報を探ろうとすれば、また秘密警察に捕まってしまう。そのためには、やはり信頼できる仲間が必要だった。
 そんなことを考えながら、たまたま立ちよったインターネットカフェでひとりの日本人男性を見つけた。「どれくらいシリアで暮らしているのか」と尋ねると、3年以上になるという。アラビア語の勉強のために学校に通っていた。秘密警察の一件もあり、日本人同士でつるむのはトラブルに巻きこまれる可能性もある。でも、かれはシリアの情勢にぼくなんかよりずっとくわしかった。
 シリアの市民がデモを始めたのがちょうど1年前の2011年3月だから、かれは反政府デモが始まる前からシリアにいたことになる。ぼくはそんなかれと頻繁に会うことになる。ぼくたちの会話は日本語なので、話の内容はまわりには理解できない。そのため堂々とシリアの情勢について語り合うことができる。ある程度、おたがいの関係も深まったところで、ぼくはかれに思い切って相談をしてみた。
「デモをする民衆が見たいんだ」
 秘密警察から解放された後も、ぼくは毎日ダマスカスを歩きまわり、市内のいたる所に顔を出しては反政府デモを行う人々の姿を探した。しかし、どこにも見当たらない。
 ダマスカスは大きな都市だし、デモもかくれて行われているのだろうし、さらに軍や秘密警察に見つかることを恐れて、たった数分か数十分で解散してしまう。事前に何の情報もなく、闇雲に探しまわっても、デモを見つけられるはずがなかった。ぼくがそんな事情を伝えると、かれがこっそりと教えてくれた。
「集団礼拝がある金曜日にモスクに行ってみなよ」
 モスクとはイスラム教徒が礼拝(祈り)を行う建物である。金曜日はイスラム教の聖典「コーラン」にも書かれている重要な礼拝日であり、この日は大勢の人々が一斉に神に祈りをささげる。かれの説明では、礼拝を終えた後に、必ずデモが行われる特別なモスクが市内にあるという。まわりをキョロキョロと見回し、あやしい人間がいないか確認したかれは、ぼくにモスクの名前と場所を小さな声で伝えた。
「あまり目立ったことはしちゃいけないよ。気をつけて」
 かれは別れ際にぼくに忠告した。
 翌週の金曜日、かれに言われた通り、ぼくはさっそく市内の中心部から少し離れた、古びたモスクに顔を出した。礼拝が終わると、ひとりの若者が声を張りあげた。
「アッラーフ・アクバル!(神は偉大なり!)」
 それが合図となって、モスクの中にアサド政権を批判する声がわきあがり、むせ返るような熱気に包まれた。
人数はそれほど多くない。50人から60人くらいだろうか。それでも、ぼくは鳥肌が立つのを感じた。初めて見る反政府デモである。これまで、ずっと探しつづけたデモにようやくめぐり合えた。かれらの熱のこもった、自由をもとめる声に圧倒された。
 ここにいるかれらは、ごくふつうの人々だった。
 若者や老人、子どもの姿も確認できた。なぜ武器も持たないかれらのことを、アサド政権は徹底的に弾圧して、取りしまり、かれらに銃を向けるのか。
 きっと、このまま反政府デモが広がれば、自らの政権がたおれてしまうとアサド政権は危機感をつのらせているのだろう。ニュースを見ているだけでは分からないが、実際にデモを見ると、たかが50〜60人の小さなデモであっても、本当にそんなことが起きるような気分になる。
 これまでシリアではアサド家が40年も国を独裁支配しつづけてきた。その中で市民の自由はとても限られたものだった。選挙では常にアサド大統領を支持する候補者が当選し、大学に行って勉強をしても良い仕事につくこともできず、政府を支持し、より多くの不正なお金を渡す人がうまくいく世の中だった。特に、アサド政権を批判することは最大のタブーだった。その長年抑えこまれていた「自由」が、今こうして爆発したのだ。
 シリアの国内のいたるところで、何万、何十万という人々が大きな声でアサド政権を批判した。そこで、アサド大統領と軍は、デモを行う人々のことを「テロリスト」だと決めつけて、暴力で市民を制圧するようになった。
 ぼくはふとモスクの外を見た。すでにこのモスクはアサド政権からマークされており、警察だけでなく、武装した治安部隊、政府軍の兵士がぐるりとまわりを取りかこんでいた。モスクに突入してくるのではないかとぼくはハラハラしていたが、イスラム教徒にとってモスクは神聖な場所である。どうやらそこまでする気はないようだった。
 だが、それは「モスクの小さな建物の中だけなら見のがしてやる」というアサド政権の意思表示であり、一歩外に出て、少しでもデモをつづけたら、そこには厳しい弾圧が待っているという脅しでもあった。
 興奮が冷めないまま、若者の一部がモスクから出て何やらさけび声を上げた。その途端、兵士が若者を捕えて、警棒でボコボコになぐり始めた。そして、抵抗する力をなくした若者たちは装甲車につめこまれて、どこかへと運ばれていった。
 外国人で目立つぼくは、息をひそめて、モスクの中から、ただただ外の様子をじっとながめていた。

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自由をもとめる意味

「たった一言、大統領を批判するだけで3か月も4か月も監禁される。尋問され、ときには拷問されて命を落とす者も少なくない」
 モスクにいたひとりの老人が、ぼくにゆっくりと話しかけた。その口調は、おだやかだけれども、怒りがフツフツとにじみ出ているような感じだった。国家の権力者の悪口を言うだけで、逮捕され、刑務所に入れられ、運が悪いと拷問され、殺されてしまう国がシリアだった。それでも、人々は声をあげ、政府への怒りを表明しようと動きはじめていた。
 「なぜそこまでして、政府の批判をするんだろう? 多少自由がなくても政府の批判をしなければ逮捕はされないのに」と感じる読者もいるかもしれない。ぼくもシリアに向かうまでは同じ考えだった。もちろんシリアにいる人々の中にも、自由は限られていても、逮捕されたり殺されたりするよりは、ひっそりと暮らしていた方がいいという人もいる。
 でも、ここに来て自分の目で見て、初めて分かったことがある。
 アサド政権を批判するだけで、徹底的に痛めつけられる。ときにはデモをする人々が、銃で撃たれてしまうこともある。それが、本来であれば国民を守るはずの政府のすることだろうか。日本で政府が同じことをしたら、どうだろうか。ぼくらはそれを許せるだろうか。
 シリアでは、反政府デモに参加する市民の数はどんどんふくれあがっていった。最初はひっそりと暮らしていたいと願っていた国民ですら、デモに参加するようになった。それは、実際に目の前で起こるあまりにも暴力的な政府の弾圧を許せなくなったからだろう。
 ぼくも、軍や警察官が市民をボコボコに殴りつけて、かれらを連行する様子を見たけれど、ぼくがシリアに向かう前に見たニュースの映像はこんなものではなかった。もっとひどいことがここシリアで起きているはずである。そうじゃなければ、これほどたくさんの国民が40年も続いた独裁政権に立ち向かうわけがない。
 ぼくは思い切って別の町へ移動することにした。
 その町では、市民が武器を手にして、政府軍と戦っているという。初めは平和的なデモだったはずだが、理不尽な暴力に耐えられず、徐々に市民が自らの命を守るために武器を手にしているというのだ。ぼくはそれを、この目で確かめたいと思った。

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ダマスカスのモスクの中で行われた反政府デモの様子。市民が政府への不満をさけぶ。モスクの外は政府軍によって包囲されている。(著者撮影)

第四章に続く・・・

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©Takeshi Sakuragi, Kazuyoshi Takeda 2021