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【無料公開①】『シリアの戦争で、友だちが死んだ』 戦場ジャーナリスト・桜木武史×『ペリリュー 楽園のゲルニカ』武田一義

今週発売の戦場ノンフィクション『シリアの戦争で、友だちが死んだ』を、第一章から第六章まで公開いたします。毎週土曜日20時に、一章ずつの公開予定です。

著者の桜木武史さんは、トラックのドライバーをしながら紛争地の取材を続けるジャーナリストです。これまでにインドのカシミールや、シリアの取材を行ってきました。
桜木さんの目を通して書かれた戦争は、遠い国で起きていることというよりは親戚の人が見てきた話のようで、少し身近に感じてもらえるかもしれません。
幸いにも、今は戦争のことを良く知らない私たちですが、遠い国で起きている悲劇を身近に感じて、まず戦争を怖がることから何かが始まるのではと思い、この本が出来ました。

本日公開する第一章では、桜木さんが初めて「本当の戦場」を目の当たりにします。この本を読み始めることで、あなたの戦争に対する考え方も変わっていくかもしれません。ぜひ、コメント欄やTwitterで感想を教えてください。

『シリアの戦争で、友だちが死んだ』
(文/桜木 武史 漫画/武田 一義)
紛争地を中心に取材活動をする著者・桜木武史がシリアでの体験を中心に綴るノンフィクション。紛争地取材を始めてからの大けがやシリアでの取材、大切なシリア人の友人を失った経験などを描き、なぜ戦場の取材を続けるのか、そこにはどんな悲劇や理不尽があるのかーー筆者ならではの目線で描く。コミックは『ペリリュー 楽園のゲルニカ』の武田一義。
小学生から大人まで。

桜木武史氏
1978年生まれ。東海大学卒業後、フリーのジャーナリストに。2005年11月、インドのジャム・カシミール州で戦闘に巻き込まれて右下顎を吹き飛ばされる。2016年に第3回「山本美香記念国際ジャーナリスト賞」を受賞。2017年TBS「クレイジージャーニー」に出演。著書に「【増補版】シリア 戦場からの声」など。普段はトラックの運転手の仕事をしながら、ジャーナリストの活動をしている。

武田一義氏
1975年生まれ。作品に、精巣腫瘍闘病の顛末を描いた『さよならタマちゃん』、第二次大戦のペリリュー島の前線を描いた『ペリリュー 楽園のゲルニカ』(既刊5巻)など。第46回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞。

■プロローグ・第一章「初めて見た本当の戦場」

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のんびりとした「戦場」

インドの首都デリーから北に約850キロ、標高1590メートルの高地に位置するのがジャンム・カシミール州の州都スリナガルである。一年を通してすずしいので、避暑地として人気が高く、自然豊かな土地には多くの観光客が押しよせる。ぼくはそんな町のど真ん中で撃たれてしまった。
 顔に手をあてると、てのひらがまっ赤にそまっていた。服は血だらけで、頭がクラクラした。たぶん血を流しすぎて、意識が遠のいていたのだと思う。このまま意識がなくなれば、死んでしまうと思った。ぼくは目に涙をうかべて、死にたくないと心の中でさけんでいた。でも、それは遅すぎる後悔だった。
 どうして、ぼくは何も考えることなく、銃弾が飛び交う戦闘のまっ只中に飛びこんでしまったのだろう。当時のことを回想できるのは、ぼくが奇跡的にも一命を取りとめたからだ。まず、初めてジャンム・カシミール州を訪れたときのことから書こうと思う。

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 2002年12月、初めて訪れたときの印象は、ぼくが頭の中で思い描いていた「戦場」とはまったくちがうものだった。
 日本を出発する前、ぼくはカシミールが「戦場」だと聞いていた。銃弾が飛び交い、人々がにげまどい、ぼくはそんな中でカメラを構えて、走りまわる姿をイメージしていた。それが、ぼくが頭の中で思い描いていた「戦場」だった。しかし、実際に足を運ぶと、銃弾が飛び交うどころか、町中では一発の銃声すら聞こえてこなかった。
 公園で遊ぶ子どもたち、繁華街で会話を楽しむ若者、市場で野菜や果物を買いこむ主婦が目に入るばかりで、町そのものは平和でおだやかな感じがした。
 ジャンム・カシミール州はジャンム地方、ラダック地方、そしてカシミール地方の3つで構成(現在は、ラダック連邦直轄領とジャンム・カシミール連邦直轄領に分割されている)、その中でも特にカシミール地方では長い間争いが続いていた。しかし、もともとは観光地として有名な町だ。夏は気温が40度を超えるような猛烈な暑さのインドの中でも、カシミールは20度前後の気温でとてもすごしやすい。
暑さからのがれようと、インド人や外国人が大勢訪れ、観光客向けのお店やホテルなどが多くあった。
 ぼくはそんなカシミール地方の中心都市、スリナガルをうろうろと歩き回った。もちろん取材の糸口を見つけるためだったが、なかなかうまくいかなかった。土産物を売るお店の主人に「恋人にカシミアのセーターでもどうだい?」と声をかけられたり、レストランでは「カシミール料理のフルコースなんていかがでしょうか」とボーイにメニューをわたされたりした。
 そこには戦場とはほど遠い、ごくありふれた観光地としての日常があり、ぼくは「旅行に来たわけじゃないのに……」と、もどかしく感じていた。そもそもカシミールは戦争をしているのだろうか。町中を歩きまわるだけでは、取材らしいことは何ひとつできていなかった。

取材ができても間に合わない

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実際、毎日のように「どこかで、誰かが殺されている」というニュースは耳にしていた。毎朝、路上の売店で売られている新聞を読むと分かる。新聞を読めば「インド軍がイスラム武装勢力のアジトを襲撃した」とか、「戦闘にまきこまれて、市民に多数の死傷者が出た」とか、物騒な話題がかならず紙面に掲載されていた。
 カシミールにはイスラム教を信仰する人が多くいる。一方で、インドの大半をしめるのはヒンドゥー教の信者だ。そういった宗教の対立がカシミールの領土の帰属権をめぐる争いとからみ合って、インド軍とイスラム教の武装勢力がはげしく戦闘を続けている。
 ぼくは新聞紙を投げ捨てて、どうしたら取材ができるのだろうかとホテルの部屋で頭をかかえた。そんなとき、ふとある考えがうかんだ。床に捨てられた新聞紙を拾い上げて、すみの方に目をやった。
「あった!」
 思わず声を上げた。通信社の住所が小さく書かれていたのだ。冷静に考えてみれば、知りあいもいない土地で、駆け出しのジャーナリストがひとりで何かできるわけがない。まずは情報をくれる仲間が必要だった。そして、信頼できる情報を誰よりも早く手にしている人間といえば、地元の記者にちがいないと思った。このままでは、どこで取材したらいいかも分からないまま、時間だけがすぎていってしまう。ジャーナリストとしての一歩をふみ出すためには、やはり同業者をたよるのが一番の近道のような気がした。
 ただ、住所が分かっても、なかなか訪れる勇気がわいてこなかった。何しろカシミールには10以上の新聞社や通信社がひしめきあっている。どれにしようかと迷っては、結局何もすることなく一日また一日と時間をむだにしていた。
 そんなある日、町中でひとりの男性と知りあった。かれはフリーでジャーナリストをしていた。ぼくは思い切って、「どこかの新聞社や通信社を紹介してほしい」とたのみこんだ。かれは「お安い御用さ!」とこころよく引きうけてくれた。
 古ぼけた建物には、[KPS(Kashmir Press Service)]の看板がかかげられていた。かれが紹介してくれた地元の通信社だった。事前に連絡を入れたわけではない。突然、しかも日本人が訪ねてきたらどう反応するのだろうか。おそるおそるドアを開ける。
「誰か、いますか? 日本から来たジャーナリストなんですが……」
「おっ、めずらしい客だな! ちょっとこっちに来いよ!」
 そこにはジャーナリストやカメラマンが集まり、日本から来た見知らぬぼくを、こころよくむかえいれてくれた。簡単な自己紹介を済ませると、興味津々で記者のひとりが尋ねてきた。
「日本ではカシミールのニュースはどう報じられているんだ?」
 その質問に、ぼくは口ごもりながら答えた。
「ほとんど何も伝えられていないよ」
 記者は残念そうに肩を落としたが、すぐに顔を上げて口を開いた。
「だったら、あんたが伝えてくれ。ここではひどいことが起きているんだ!」

 まだ駆け出しのぼくにそんなことができるのだろうかと不安だったが、まずは何が起きているのかを自分の目で確認するしかない。ぼくは「任せてくれ!」と胸をはった。それから、ぼくはこの通信社に毎日通うようになった。
 最新の情報が通信社に飛びこんでくる。それらの情報をもとに、ぼくは地元の記者と共に現場に向かう生活が始まった。取材を重ねることで、ようやくカシミールで戦争をしていることを肌身で感じることができた。
 ただ、これでカシミールの戦争を伝える記事が満足に書けたかというと、そううまくはいかなかった。特にむずかしいのが戦闘の取材だった。毎日のように起きているインド軍とイスラム武装勢力との戦闘は、都市から離れた田舎町で発生することが多かった。
 戦闘が始まったという知らせが入ると、記者の誰かが車を準備する。ぼくはその車に一緒に乗せてもらい、急いで現場に向かう。車は時速100キロを超えた猛スピードで突っ走る。とにかく、情報が入ったら、一秒でも早く現場に到着することが良い取材をする条件だと記者の誰もが口を酸っぱくして言った。
 荒い運転にヒヤヒヤしながらも、現場に到着するまでの間、ぼくは胸がざわざわと波打つのを感じた。ニュースの一報だけでは、何が起きているのかはっきりとは分からない。銃弾が飛び交うはげしい戦闘なのか、死傷者は出ているのか。不謹慎ではあるが、世界中を驚かせるような衝撃的な写真が撮れるかもしれない。1枚の写真が世界を変える。そんな人々の心を突き動かす写真が撮りたかった。
 また、戦場ジャーナリストを志したぼくは、まず戦闘を自分の目で見て、報道したいという気持ちが強かった。そうすることで、ぼく自身の体験を通して、リアルな戦争を伝えることができると信じていた。
 しかし、戦闘の現場に立ち会うのは簡単なことではなかった。現場に着いたときには、多くの場合、銃撃戦は終わっていた。そうでなくても、一般市民やジャーナリストが入らないように、軍が立ち入りや通行を禁止する「非常線」というものをしいていて、ぼくら記者たちも遠くからながめることしかできなかった。
 もどかしかった。戦闘が起きてはいても、なかなかリアルタイムでは見ることができない。ぼくはカメラを首からぶら下げて、あわただしく行き交うインド軍の兵士の姿を見守った。銃声が聞こえても、非常線の外からでは何が起きているのか分からない。何をしにここに来ているんだろう。そんなもやもやした感情を抱えながら、ぼくはカシミールの取材をねばり強く続けていた。

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待ちに待った本物の「戦場」

2005年11月14日、初めてカシミールを訪れてから3年ほどたち、3回目の取
材に来ている最中に、その事件は起きた。
 その日は、午前中に地元の通信社に顔を出した。しかし、特に大きなニュースは入っていなくて、しぶしぶと滞在先のホテルに帰った。
「今日は特に何も起きないだろうな。何も起きないのは良いことだけど……」
 部屋の窓から外をのぞくと、少なくとも表面上は平和そうに見える、おだやかな町の光景が広がっていた。ぼくは、ベッドに体を投げだして、いつのまにかウトウトと眠りにおちていた。
 どのくらい時間が経ったのか分からないが、大きな音が耳に入り、突然目が覚めた。爆発の音だ。
 夢なのか現実なのかよく分からないまま、あわててホテルの窓から外の様子をうかがった。先ほどまでにぎやかだった繁華街に人影が一切見当たらない。
 おかしい。やはり何か起きたのだろうか。そう思った矢先、銃声が立てつづけに鳴りひびいた。ダッダッダッと重い音だ。眠気が一瞬にしてふきとび、ぼくは転がるように部屋を飛びだした。
 銃はインド軍の装甲車から発射されていて、ダッダッダッとさらに何十発も撃たれた弾丸は、ぼくがいるホテルの真向かいの建物を穴だらけにしていた。壁がボロボロとくずれおちて土煙があがる。気がつくと、ぼくはサンダルをはいたまま、カメラをギュッとにぎりしめ、ホテルの玄関口まで来ていた。
 玄関口から外に出ようとすると、ホテルの従業員があわててやってきて、ぼくの体を手でおしとどめた。「絶対に外には出るな。すぐ近くで軍が銃をぶっ放している。戦闘が落ちつくまでこの場でじっとしていろ」
 ぼくは言いかえした。
「分かった。でもこの場所にいるかどうかは自分で決める」
 結局、ぼくは従業員の忠告を一切聞きいれることなく、外に飛びだしてしまった。戦闘のまっただ中だ。しかし、いざ外に出ると、あまりにも銃声の迫力がすさまじいので、いったん近くの洋服店に入った。店員がギョッとしてぼくを見る。
「なんだ、なんだ? あんた誰だ?」
 目の前の道で戦闘が行われている最中に、突然外国人が店に入ってきたら、驚くのも無理はない。ぼくはあわてて自己紹介をして、ジャーナリストであることを告げると、店員は何が起きているのかをかいつまんで話してくれた。
 30分ほど前にイスラム武装勢力がインド軍の検問所に手りゅう弾を投げこんだ。犯人はすぐに近くの建物に立てこもり、インド軍が応戦を始めた。ホテルで聞いた爆発音は手りゅう弾だったらしい。そして、インド軍が今攻撃している目の前の建物に犯人がいるという。
 ぼくは礼を言って、立ち去ろうとした。すると、背後から店員のあわてるような声が聞こえた。「外には出るなよ。危険すぎる」
 今、外に出れば、かなり危ない状況であることは分かっていた。でも、そのときのぼくは冷静な判断力を失っていた。ついに待ちのぞんだ瞬間だ。今日こそ戦闘を間近で見て、しっかりとその様子をカメラにおさめるぞ。そんな興奮とあせりが、頭の中いっぱいに広がっていたんだと思う。ぼくは店員の警告を無視して、店を出てしまった。
 ぼくは壁に身をふせて、インド軍の装甲車をながめていた。数分前まで火を噴いていた機関銃が今は落ちついていた。

あっというまに終わった取材

不気味な静けさがあたりを包みこんでいた。
 すると、3台の装甲車のうち1台がのろのろと動きだした。その瞬間──。
 体が宙にうかぶような感覚と同時に、頭を金属バットでなぐられたかのような衝撃を受けた。気がつくと、ぼくは空を見上げて、地面にあお向けになってたおれこんでいた。
 意識がもうろうとしていた。生温かな液体が首すじを伝わるのを感じていた。軽くふれると、てのひらがまっ赤に染まった。血だ。撃たれたのだと分かった。そして、傷口と思われる右下あごを押さえると、わき水のように血がドクドクと流れでていた。
「ここからにげなきゃ…助けをもとめなきゃ……」
 そんなことを考えていた。ぼくはまず、首からぶら下げたカメラを投げ捨てた。
「カメラは体の一部だ。決定的瞬間をとらえて記録する。ジャーナリストにとっては命よりも大切なものなんだ」なんて、いつもは思っていた。
 けれど、ぼくは真っ先にカメラを手放した。理由は簡単だ。重くてじゃまで、一刻も早くその場からにげたかったからだ。頭がくらくらして、どっちへ行ったらいいかも分からない。すぐとなりでは再び銃声がダッダッダッとはげしく鳴りひびいていた。
 また撃たれるかもしれない。そう思うと、さっきまで感じなかった恐怖がぼくをすっぽりと包みこみ、足がすくんでしまった。動くことができない。助けをもとめようにも、大量に流れでる血のせいでまともに声すら出せなかった。
 そのとき、うずくまるぼくにひとりの男性が手をさしのべてくれた。友人のカメラマンだった。かれはぼくの手をにぎって、非常線の近くまでぼくを引っぱってくれた。フラフラとした足取りで、ようやくぼくは非常線の外側にたどりついた。だが、そこには大勢のカメラマンが待機していた。顔見知りのカメラマンも何人かいたような気がしたが、かれらはぼくに向かって、ひたすらシャッターを切り、写真を撮りつづけていた。
「ひどいじゃないか。なんで助けてくれないんだ。なんで写真を撮っているんだ!人間じゃない!」

 消えそうな意識の中でそんなことをかすかに感じ、怒りに震えていた。
 ぼくは警察車両の荷台に乗せられ、すぐさま病院へと搬送されることになった。不思議と痛みを感じることはなかったが、これまで味わったことがないはげしい後悔で胸がしめつけられた。
 このまま死ねば、もう二度と母親や友人に会えない。せめて母親に一言「ありがとう」と伝えたかったし、「まだやり残していることがある。死にたくない!」と思い、泣きじゃくっていた。でも、もう遅い。ぼくは死ぬんだ。そう思うと、ぐったりした。
 けたたましく鳴りひびくサイレンの音が聞こえた。車がガタガタとゆれていた。
病院はまだだろうか。ぼくはこんなときなのに、いや、こんなときだからなのか、場ちがいだけれど、なぜか焼肉のことを考えていた。やわらかい肉の味、におい……死んだら二度と食べられないと思ったら、涙がまたあふれ出てきた。
 病院に着くと、止血などの応急処置をほどこされた。どうやらぼくはまだ生きているみたいだ。その途端、少し冷静さを取りもどし、安心したのか、急にものすごい勢いで痛みがおそってきた。やがて体全体に震えが走るようになると、医師と看護師に手足を押さえつけられた。
 死にたくないと思っていた。とにかく生きたかった。でも、この苦しみから解放されるのであれば、死んでもいいと思った。ぼくは最後の気力をふりしぼって、ペンと紙をにぎりしめて、こう書きつけた。
「if I am going to die, please tell my mother, I am sorry(もしぼくが死んだら、どうか母親に『ごめんなさい』と伝えてください)

撃たれて手放したカメラと、その時に落ちたメガネ。カメラは友人によって回収され、ぼくの手元に戻った。(※血の苦手な方はご注意ください)

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第二章に続く・・・

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©Takeshi Sakuragi, Kazuyoshi Takeda 2021