なぜジャーナリストを続けるのか『シリアの戦争で、友だちが死んだ』 戦場ジャーナリスト・桜木武史×『ペリリュー 楽園のゲルニカ』武田一義 【無料公開②】
今月発売の戦場ノンフィクション『シリアの戦争で、友だちが死んだ』を、第一章から第六章まで公開いたします。毎週土曜日20時に、一章ずつの公開予定です。 公開済みの第一章はこちらです👇
戦場で「ジャーナリスト」を名乗るということは、何を意味するのか。本日公開の第二章では、主人公が自らの仕事の価値に気づく瞬間が描かれています。この本を読み始めることで、あなたの戦争に対する考え方も変わっていくかもしれません。ぜひ、コメント欄やTwitterで感想を教えてください。
■第二章 なぜジャーナリストを続けるのか
新聞の一面をかざった写真
気がつくと、ぼくはカシミールの病院でベッドに寝かされ、天井を見上げていた。麻酔からさめたばかりのぼくは、うまく状況がのみこめなかったが、どうやら手術は無事に成功したみたいだった。でも、息をするのもやっとで、声を出そうとしても言葉はもちろん、音すらも出なかった。のどにはチューブが突きささり、そこから空気がもれていた。
「右下あごの骨をすべて取りのぞいた。のどのチューブは確実に呼吸をするためには必要だったんだ。1週間もすれば取れるから安心してくれていい」
医師は、ぼくにそう説明した。右のあごがなくなったことに驚いたが、何とか助かったことを思えば、運が良かった。顔を撃たれて生き残っていることが奇跡なのだ。となりでは地元の通信社に勤める友人が心配そうにぼくを見つめていた。
ぼくは友人に「今日の新聞が読みたい」と書いた一枚の紙をさしだした。
「本当に読みたいのか?」
力をふりしぼり、精一杯首をたてにふった。友人は苦笑いをして、しばらくして地元でも有名な新聞を買ってきた。
「一面トップはタケシの写真だぞ」
友人にわたされた新聞には、昨日の戦闘で日本人が負傷したことを伝える記事と一緒に、ぼくが撃たれた直後の写真がでかでかとのっていた。
口元からあごにかけて肌がまっ赤に染まっていた。苦痛に顔をゆがめて、瞳には生気がまるで感じられない。死に直面した人間のおびえた表情が、たった1枚の写真からここぞとばかりににじみ出ている。
これが撃たれた直後のぼく自身なのか。なんだかとても不思議な気がした。
あのときは、大ケガをしている人に手をさしのべることもなく、レンズを向けて写真を撮っていたカメラマンたちに怒りの気持ちがあったし、「この人たちは人間じゃない!」とまで感じた。でも、新聞にのっているぼくの写真を見たとき、怒りや憎しみが消えてなくなった。
仮に、目の前に死にかけた人がいたとする。 ふつうの人であれば、真っ先に手をにぎって、肩を抱き、救急車をよんだり、助けをもとめて声を張りあげたりすると思う。
でも、戦争を伝えるジャーナリストやカメラマンにとっては、それが正解ではないときもあると、ぼくは感じた。そこにいる人を助けることはできなくても、写真や映像で記録すれば、それが後で、戦争を伝える手段になるかもしれない。
ひとりの命を犠牲にしてでも伝えることに価値があるなんて、おかしいと思われるかもしれないし、ジャーナリストやカメラマンのことを冷たいと思うかもしれない。
でも戦争をテーマに取材をする限りは、苦しみや悲しみに直面する人を目撃することはさけては通れない。それを目撃したら、撮影したり、文章にしたりして、人に伝えるのがこの職業だ。
新聞を何度見ても、銃弾で撃たれた直後のぼくは、カシミールの戦争を伝えるためには写すべきものだと思った。あのときぼくを助けようとしなかったカメラマンたちを、もう責める気持ちにはなれなかった。
ぼくもこんな写真を撮って、この戦争のことを伝えたかった。そう思いながら、何もできずベッドに横たわる自分が情けなかった。
治療はつづく
その後、ぼくはカシミールからインドの首都デリーに飛行機で運ばれた。そこで再び手術をして、2週間余り入院すると、ようやく自分の力で歩けるようになった。これで帰国ができるが、右下あごの骨も歯茎もすべてふき飛ばされて、なくなっていた。
「これまで数多くの手術をしてきたけど、銃弾であごを失った患者を診るのは初めてだよ」
日本の大きな病院で、ぼくの手術を担当してくれる医師はそう言って笑った。ぼくは本当に大丈夫なのだろうか。ぼくが想像していたよりも、ケガの具合は深刻だった。
インドで行った2回の手術は応急処置のようなものだったが、日本での3回目の手術は15時間にもおよぶ過酷なものだった。うっすらと目を開けると、蛍光灯の光がまぶしかった。
担当医が「手術は成功しましたから」と笑顔で話しかけてくれた。となりにいたのは母だった。弱よわしい笑みをうかべて、目が覚めたばかりのぼくに言った。
「もう絶対に危ない場所には行かないでよ」
母は、ぼくが戦場に足を運んでいることを知っていたが、それでも「息子がやりたいことだから」と強く反対することはなかった。でも、まさかこれほどの大ケガをするとは思っていなかったのだろう。今回ばかりはだまっていなかった。
母の言葉を受けて、ぼくも「これからどんな仕事をしていこうか。困ったなあ」と内心ではジャーナリストから足を洗うことも考えていた。なにより、あんな危険な目には二度とあいたくない。
そんなとき、同じく戦場で取材をするジャーナリストの友だちが病室に顔を出した。かれらは生きて無事に帰ってきたぼくをねぎらいながら、こんなことを言った。
「元気になったら、また取材に行けるさ」
ぼくにはこの言葉が意外で、とてもびっくりした。
「また行ける? こんな大ケガをしたのに?」
もう一度戦場に足を運ぶなんて考えてもいなかったので、「え!」と声をあげてしまった。でも、不思議なことに「また取材ができる」と考え始めたら、だんだんやる気がわいてきたし、もう一度がんばれるんじゃないか……という自信が芽生えてきた。
戦場ジャーナリストをつづけたい。日に日にそのことで頭の中がいっぱいになっていた。この気持ちは何だろう。なぜ危ない目にあったのに、また行こうなんて思うのだろうか。ぼくはカシミールで初めて取材したときの、ある現場のことを思い出していた。
ぼくがもとめられた現場
カシミールの地元の通信社に初めて行った日から数日後、朝早くに記者のひとりがぼくの宿泊しているホテルにやってきたことがあった。100キロ近く離れた小さな村で事件があったというのだ。すぐさま、いっしょにその村に向かうことになった。
これは、ぼくにとって初めての取材だった。胸が高鳴り、ドキドキという鼓動がまわりにも聞こえそうなほど、ぼくは緊張していた。
目的地の村につくと、大勢の村人が広場の中心に集まっていた。
前にも書いたように、そこは銃弾の飛び交う戦場ではなかった。でも、人の泣きさけぶ声が静かな村にひびいている。何が起こっているのだろうか。ぼくはカメラを手にしたまま、何をしていいのか分からなかった。でも、すぐに村の人に手をにぎられて、人が集まっている輪の中心へと案内された。
そこには白い布に包まれた男の人が寝かされていた。男の人は、すでに亡くなっていた。そして、年配の男性がぼくにすがりついてきた。亡くなった男の人の父親らしい。
「息子は見せしめで殺されたんだ!」
見せしめで殺された? 最初ぼくは、何が何だか分からなかった。
父親やまわりの人と話し始めると、だんだん事情がのみこめてきた。男の人はインド軍の拷問によって亡くなっていた。政府に反抗しているのかどうかを疑って、軍が暴力をふるうことがあるそうだ。
何か証拠があるわけでもないのに、こうやって時々誰かを逮捕し、連行して、拷問をする。それに村人たちが恐怖を感じて政府に逆らえないように、脅しをかけるのである。
「もしも政府に反抗すれば、この男のように拷問して殺してやるぞ!」というメッセージがこめられている。そのために罪のない村人が犠牲になっていた。
男の人の遺体は、あまりにひどい拷問のため、目も当てられない姿だった。体のいたるところにアザがあった。顔ははれあがっていた。歯もおられていた。
なんで、こんなにひどいことがゆるされるのだろう。平和に暮らしたい市民や村人が、争いの板ばさみにあって命を落としていた。戦争がそこで暮らすあらゆる人々を巻きこんでしまうことに、ぼくは衝撃をうけた。
なぜ息子が殺されなければならないのか──父親はぼくに必死でうったえかけた。
わが子が理不尽に殺害された悲しみを抱えながら、怒りをにじませた父親の表情にぼくはうろたえた。悲しみと怒りでいっぱいになった父親の前で、どのような言葉を投げかけたらいいのか、どんな表情をすればいいのか、ぼくには分からなかった。初めて訪れた現場の重みにたえられなかった。そのときのぼくの覚悟は、その程度のものだったのかもしれない。軽い気持ちだった。戦場に興味があった。だから、この村を訪れた。ここに来るまでのぼくは、ジャーナリストとは何をすべきかを深く考えていなかった。
小さな村でひとりの村人が拷問され、殺されても、メディアは見向きもしない。それほど、カシミールでは日常的にこうした暴力がまかり通っていた。
あたりを見回しても、他にジャーナリストなんていない。このままぼくが何も伝えなければ、小さな村で起こった悲劇は、誰にも伝わるはずもなかった。殺された男の人の名前はアバスタントゥレ、25歳の若者だ。
「ぼくはジャーナリストです」
そう思い切って口にしたとき、人々が一斉にぼくをとりかこんだ。もちろん、こんな田舎に外国人が来ることはないから、まわりもぼくがジャーナリストだと分かっていたに違いない。だからこそ、自己紹介をするより早く、現場の状況をぼくに教えてくれた。
でも、改めて「ジャーナリスト」と名乗ることで、ぼくはこの職業をするうえでの、大きな一歩を踏み出したのだと強く感じていた。同時に、この村の人たちにぼくが中途半端な気持ちでここに来たのではないという決意みたいなものを見せたかった。
かれが生き返るわけはないけれど、そこにいるみんながぼくに期待してくれていた。この場所で起きている悲惨な状況を誰かに知らせることで何かが変わるかもしれない。そんな思いが村人からひしひしと伝わってきた。
何も実績がなくても、戦場をまだ見たことがなくても、ぼくはジャーナリストだ。その責任を投げだせない。ぼくがやらなきゃ、どうするんだ。何としても伝えなければいけないという感情が胸のうちにわいてきた。
病院でケガの治療中に思い出したのは、この村でのできごとだった。この取材があったから、ぼくは大ケガをしたにもかかわらず、「また取材に行こう」なんて思ったのかもしれない。
拷問によって息子を亡くした父親が、ぼくのようなジャーナリストをたよりにしてくれたように、もしかしたら、まだ世界のどこかにはぼくを必要としてくれる人がいるのかもしれない。ぼくにはまだやるべきことがあるような気がしていた。
第三章に続く・・・
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©Takeshi Sakuragi, Kazuyoshi Takeda 2021