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「心の病」を「そもそも論」してみる(荒井裕樹)

連載:黙らなかった人たち――理不尽な現状を変えることば 第10回
普通の人がこぼした愚痴、泣き言、怒り。生きづらさにあらがうための言葉を探る、文学研究者による異色エッセイ。本稿は、2018年11月1日にWEB astaで公開された記事を転載したものになります。

 ぼくたちは、もう少し「そもそも論」をしたほうが良い。
 まっとうな「そもそも論」ができると良い。
 今回は、そんなお話。

「ホロ苦い思い出」さえもつくれない学生たち

 経済的に苦しい学生が増えている。教壇に立っている「肌感覚」でもそう感じるし、各種の調査データにも表れている。
 特に「ひとり親世帯」の困窮度が高い。
 困窮度の高い学生は、何かアクシデント(親族の病気や人間関係の変化など)があると、学業が続けられなくなってしまうことも多い。
 早急に有効な支援策を講じなければならないのだけど、こういうときに大事なのは「厳密な調査」と「正確なデータ」に基づくこと。でないと「大学時代は金がないもんだよ。俺も~(以下略)」といった「大人のホロ苦い思い出(含む自慢)」みたいなものにもみくちゃにされて、実態が置き去りにされてしまう。
 いま学生が直面している経済的困窮は未来を奪いかねない。学生たちは「大人になってからホロ苦く思い返せる学生時代」を手に入れることさえできなくなる。
 だから、実態を正確に把握するために「調査! データ!」と、うるさく言うことが大事。しつこく繰り返すけど「調査! データ!」だ。
 ――と、言ったところで、やっぱりこう続けたい。
 そもそも、学費の負担、重すぎません? 

「そもそも論」が機能しない社会は息苦しい

 忙しい人たちには、「そもそも論」は好かれない。むしろ嫌われる。
 ぼくがいる教育現場も、毎日が「不測の事態」の連続。そんな中で全力を尽くしているから、「そもそも~」なんて言われると、「そりゃそうだけど、いまそれを言っても仕方なくない!?」となる。
 でも、「そもそも論」は、大きな方向性を誤らないために必要だ。これを見失った「現場の努力」は、時に虚しいほど的外れになる。(オリンピックの猛暑対策に「打ち水」が出てきて、つくづくそう思った。そもそも、こんな時期に、こんなところでオリンピックやらなきゃいけないの?)
「そもそも論」は、使い方次第で毒にも薬にもなる(どんな言葉でもそうだけど......)
「そもそも生産性のない人に税金を投入するのは~」みたいに使われると、社会がこわばって息苦しくなる。でも、「そもそも『生産性』って何だよ!」みたいに使えると、社会のこわばりを問い直せる。
 誰かを排除するためじゃなく、誰もが社会にいられるように、「そもそも~」と言えた方が良い。
 学費の問題もそうだ。そもそも「学ぶ」ことは人権に関わる。「教育を受ける権利」は憲法にも書いてある。「お金がある人しか学べない」なんてことがあってはならない。
 だから、まっとうに「そもそも~」と蒸し返せる人が、社会に一定数いたほうが良い。

『幻聴妄想かるた』のすごさ

 まっとうな「そもそも論」を言える人は格好良い。何度か紹介している横田弘さんは、その代表者だ。
「障害者は不幸」「障害は努力して克服すべき」という考えが常識だった時代に、「なんで障害者のまま生きてちゃいけないんだ!?」と言ったのだから、これは何度考えてもすごいことだ。
 横田さんのようにガツンという感じじゃなくても、柔らかに「そもそも」を投げられる人も素敵だ。

 ぼくが好きなのは、「就労継続支援B型事業所ハーモニー」が作っている『幻聴妄想かるた』シリーズ。先日、最新バージョン『超・幻聴妄想かるた』が出たのだけれど、これがとても良い。
 精神疾患の中には幻覚や妄想を伴うものがある。かつて、精神科医療の現場では「患者は幻覚・妄想を口にすべきでない」なんて言われていた。でも、これはその幻覚と妄想を「かるた」にして、みんなで楽しめるようにしてしまったもの。
 ときどき引っ張り出して眺めると、「人はそれぞれ違う現実を生きている」と再確認できる。

「布団めくるとブラックホール 気づくと土星にいるって、信じられる?」(「ふ」の札)

「でもね、精神科で悟りの話をすると入院になるんですよ」(「て」の札)

 なんて札を読んでいると、「自分が見ている現実こそが『普通』で『正常』なものだ」なんて言うことが、とても傲慢に思えてくる。
 そして、こんな疑問が浮かんでくる。
「そもそも、『心の病』って何? それは治らなきゃいけないものなの?」

「治す」ことを目指さない場所

「心の病って治らなきゃいけないの?」と書くと、不謹慎だと怒られるかもしれない。でも、こうした「そもそも論」の大切さを、ぼくに教えてくれた人たちがいる。
 東京都八王子市にある精神科病院「平川病院」。そこの一角に、まるで美術大学みたいな空間がある。1995年から続いている〈造形教室〉だ。

〈造形教室〉は、精神科病院に入院している人、通院している人、かつて入院・通院していた人たちが来て、絵を描いたり、モノを作ったりする場所だ。とにかく「この場を必要とする人たち」が集まってくる。ボランティアや学生が来ることも多い。
 ぼくも大学院生時代、ここに通っていた。お手伝いをしたり、してるふりをしたり、皆に話を聞いてもらったり、隙を見て昼寝をしたりして過ごした。
 その研究成果(あれを「研究」と言うのであれば......)をまとめた本があるので、興味のある人は手にとって欲しい。ぼくの分身みたいな本。自分では「ひょっとして、これ名著なんじゃない!?」なんて思っている。(『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』亜紀書房)
 この〈造形教室〉は「癒す」というフレーズを大事にしている。一年に一回、定期的に行われる名物絵画展の名称も「"癒し"としての自己表現展」だ。
「治す」じゃなくて、「癒す」と言っているところが重要。ものすごく重要だ。

「病気は治しちゃいけない」の真意

 精神科の関係者には、ときどき「病気は治しちゃいけない」なんて言う人がいる。はじめてそうした話を聞いたとき、ぼくは軽くパニックになったけど、この感覚、いまならよくわかる。
「心の病」に関して言うと、「治す」という表現は、やっぱり慎重になったほうがいい。

「治す」という言葉には、「悪い部分を取り除く」というニュアンスがある。外科手術の対象になる病気や、抗生物質が処方されるような症状の場合、「治す」はわかりやすい。病気の原因になった「悪いもの」を取り除いて、症状をなくすことだ。
 では、「心の病」の場合、どうだろう?
「心」は、自分の根幹にかかわる大切なもの。でも、とてもアヤフヤなもの。だから「心の病を治す」となると、「自分の心には悪い部分があって、それを取り除いたり、矯正したりしなければならない」ということになる。
 そうすると、少なからず「自己否定」の要素が入ってしまう。「心の病は治さねばならない」と考えすぎると、「治らない自分はダメなんじゃないか」と、更なる「自己否定」のきっかけをつくってしまいかねない。

そもそも「心の病」が「治る」って、なんだ?

 それから「心の病」って、「そもそも何が病んでいるのか?」という問題がある。
 たとえば、ブラックな職場でハラスメント被害にあっている人がいたとする。学校でいじめられて苦しんでいる子どもがいたとする。家族の歪んだ関係(虐待とか)に悩んでいる人がいたとする。
 そうした人が精神科を受診したとする。医師に診察してもらって、入院したり、療養したり、服薬したりしたとする。その成果もあって、それまで苦しんでいた症状(たとえば「抑鬱感」など)が軽くなったとする。
 でも、その人を苦しめていた職場や学校や家族が、以前のままの状態だったとしたら? 
 その人は引き続き、そこで生きていかなければならないとしたら?
 それは「治った」と言ってしまっていいのだろうか?

 そもそも、「心を病む」って、その人の「心」が問題なの?
 むしろ、その人を取り巻く「環境」が問題なんじゃないの? 
 その人を取り巻く「人間関係」とか「環境」が病んでいて、それが立場の弱い人を通して噴出している、ということもあるんじゃないの?
 それって個人の力じゃどうにもならないんじゃないの?
 それでも「心を病んだ人」は、「弱い」とか「だらしない」とか言われなきゃいけないの?
 そもそも、「誰かにとって望ましくないような心の在り方」を指して、「心の病」と呼んでいるってことはないの?
 これらもろもろをひっくるめて、「心の病」って何なの? それが「治る」って何なの?

「癒しブーム」への違和感

〈造形教室〉は病院内にあるから、傍目には「リハビリ」とか「芸術療法」のように見える。
 でも、ぼくにはどうしても、そうは思えなかった。
 もっと深いところで、至極まっとうに「そもそも『病む』って何だろう?」と考える場だった。

 そんな〈造形教室〉が大事にする「癒す」というのは、「治す」とは違う。
「癒し」って、昨今の「癒しブーム」で「ちょっと心地よいこと」という意味で使われているけど、それとは違う。ぜんぜん違う。
 たとえば、自分の力ではどうにもならないような、苦しい境遇に置かれた人がいたとする。もう「生きること」を諦めたくなるほど、つらかったとする。でも、自分で自分を支えながら、誰かに支えられながら、何かに支えられながら、何とか、どうにか、それでも、今日という日を生きられたとする。
「癒す」って、ぼくなりの言葉で翻訳すれば、この「何とか」「どうにか」「それでも」とつぶやくときの、そのつぶやきにこもった感覚だ。
〈造形教室〉には、そんな思いをアートに込めた人たちが集まって、日々、絵筆を握っている。とても不思議で、とても素敵な空間だ。

「回復」にもそれぞれのドラマがある

 そもそも、ぼくらは「病気から回復すること」を指し示す言葉として、「治る」以外の言葉を持ってない。
 でも、「治る」という言葉には「社会の標準体である"健常者"に戻ること」というニュアンスが混じっていて、そこがどうしても気になってしまう(そもそも、治らなかったら社会参加しちゃいけないんですか?)。

「病気」には、人ぞれぞれの人生ドラマがある。同じように、「回復」にも人それぞれのドラマがある。いろんな種類の「回復」がある。
「症状もきれいさっぱり消えてパーフェクト」という回復もあれば、「症状はなくならないけど、以前よりは良い」とか「なんとか、やっていける」といった回復もある。
「身体は動かなくなってしまったけど、新たな人間関係に恵まれたから、まあ悪くないかな」という回復もあるだろうし、これ以外の回復だって、いろいろとあるはずだ。
 だとしたら、「回復」を意味する言葉って、もっとバリエーションとかグラデーションがあれば良いのに、なんて思う。
 こうした言葉がもっと豊かになれば、この社会も、もう少し緩やかに、優しくなるような気がする。
 だから、一人の文学者として、ぼくは腹をくくって「そもそも~」と言い続ける。
「誰かを排除するための言葉」じゃなく、「誰もが社会にいられるための言葉」を降り積もらせるために。

※参考:平川病院〈造形教室〉のアート展が、下記の通り開催されます。ご興味のある方は足をお運び下さい。

第25回 "癒し"としての自己表現展
会期:2018年11月28日(水)〜12月2日(日)
時間:10時~18時(最終日は16時まで)
会場:八王子市芸術文化会館「いちょうホール」第1展示室(JR八王子駅から徒歩13分)
 〒192-0066 東京都八王子市本町24番1号 電話:042-621-3001
主催:平川病院 〒192-0152 東京都八王子市美山町1076  電話:042-651-3131(代)安彦・宇野
備考: 12月1日(土)の14時からと2日(日)の13時から、作者が自作の前で語る〈ギャラリートーク〉があります。
荒井裕樹
1980年東京都生まれ。2009年東京大学大学院人文社会系研究科終了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て、現在、二松學舍大学文学部専任講師。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)がある。

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