短歌五十音(ふ)藤井貞和『うた――ゆくりなく夏姿するきみは去り』
1.水・記憶・戦争
藤井貞和は詩人・古代文学研究者。折口学を受け継ぐが(→短歌五十音(し)釈迢空)、その肩書きに歌人が入ることはない。文学を考え、文法を論じ、詩を綴る。その生活から上の発言が生まれる(発言については後半で確認しよう)。
彼は歌人を名乗らないが、『うた――ゆくりなく夏姿するきみは去り』(書肆山田、2011)という一冊の歌集がある。主に若いころの歌をまとめていて、「そのころ自分の体内にあったかもしれない律動と、再開ならぬ再会してみたい」(終わり書き)ということらしい。
短歌を見るまえに彼の詩を読んでおきたい。教科書にも採録されたものだ。
「とつかが」、「おおふな」、「つじどうに」、「にのみやでは」と迷うように使われる助詞。「日本語を(で/が)苦しんでいる」彼に「わたし」は共感を示す。優れた着眼点と巧みな構成が胸を打つ作品だ。
さて、彼の短歌を見よう。まずは中学時代の歌。
「雨を重み」は雨が重いので、「みぎゆ」は右からの意味。濡れそぼつ森の時間の流れが感じられ、中学生の歌とは思えない。
また、表題作。
「ゆくりなく」は突然、「夏姿」は夏らしい服装(たとえば浴衣)。たしかに別れは春か夏の明るい季節がいい。秋や冬はさびしすぎる。
「たわやすく」は容易く、「溢れむばかり垂んとする」は今にも溢れそうになること。手のひらは思ったより小さくて、水は思ったより溢れやすい。その瞬間の悲しさ、苦しさ。苦しみは何度感じても常に新鮮でみずみずしい。
詩のようにレイアウトされたこの歌もイメージの中心は水にある。蛇口から注がれる「飲み/みず」の泡立つさま・飛び散るさまが「すみれ」「傍隅の繭」「あわ」を連想させ、「繭」「あわ」のイメージが人の「眠り」という発想を導く。詩的な連鎖が見事な一首だ。
藤井は1942年生まれだから戦後の復興とともに育ったのだろう。この歌群は8月に読むのにふさわしい。
焼夷弾の跡。饒舌な父の帰還。散らばる白菊。焼夷弾の香り。戦争を囲む記憶が呼び起こされたあと、最後の歌が歌集の掉尾に置かれている。
「あかとき」は暁。明けがたの陽を浴びながら死にゆく魚類とはなにか。……おそらく戦死者だろう。彼らは「いまも」沈みつづけている。
藤井はあとがきで言う。
いかように語っても語りきれない戦争体験の壮絶さ。それでもなおそれは語られなければならない。必要なのは戦争の核心を伝えうる切り立った「真に抗うためのことば」だ。
思えば短歌五十音で紹介してきた歌人も戦争の歌を残していた。
また、noteでは紹介できなかった土岐善麿の歌。
こうした短歌が実際の写真や映像に比べていかに貧弱で、いかに多くのことを伝えてくれるか。
ことばは鋭く真実に切り込むことができる。だからことばを使い、ことばを研ぎつづける。彼らのことばを拾いながら。
2.懸け詞
『〈うた〉起源考』(青土社、2020)という分厚い本には藤井貞和の短歌論がぎゅっと詰め込まれている。後半では現代短歌にも触れられているが、本noteでは序章と第Ⅰ部を確認する。
序章は掛詞の話からはじまる。本書の表記では懸け詞だ。
懸け詞とは何か。まず用例を見よう。引用・現代語訳は本書にしたがう。
句読点を付した奇妙な表記、そして個性的な意訳が目立つが、ここでは懸け詞の効果に注目したい(表記は折口の影響だ)。藤井は懸け詞を「文の分裂」と考え、これを「屈折」と呼ぶ。そして、歌の「屈折部」が重要だと考える。
先の歌で考えよう。この歌には「いなば」と「まつ」という二つの懸け詞=屈折部がある。
藤井はなぜ懸け詞に注目するのか。彼は「屈折はそこにある何か――歌の地下にある何か――を覗きこむ装置」だという。
藤井は同じ言いかたを別のところでも用いている。懸け詞は一首を論理的な関係を持たない複数の文に分裂させる。しかし分裂した歌は「歌末で真の統一に至る」。「統一させるのは〝真の主体〟とでも言うべき一首ぜんたいを支える主体が地下のような深層より出てくるからだろう」。……どういうことだろう?
対談によると、これは時枝誠記の零記号という考えに着想を得ているらしい。時枝は独自の文法体系を構築した国語学者で、その骨子は『国語学原論』にまとめられている。なかでも零記号は特にややこしいのだが、いろいろ調べてみたので以下に整理してみよう。
時枝は単語の機能を詞と辞に分ける。分かりやすいのは辞で、これは話し手の感情や判断などを直接的に伝える単語、つまり感動詞や助動詞・助詞などを指す。対して詩は話し手の感情などを直接伝えずに客体化する単語で、感動詞・助動詞・助詞以外の全般を指す。
たとえば「花が咲いた」という文では、詞は「花」と「咲い」、辞は「が」と「た」にあたる。ここでは眼前に咲く花を客体化して表現する「花」と「咲い」を、それぞれ「が」「た」という話し手の把握・判断を直接示す語が包み込んでいる。
詞と辞の区別は三人称の主語を立てると明瞭だ。たとえば「嬉しい」は一見すると話し手の感情を伝える辞のようだが、「彼は嬉しいようだ」という文では彼の感情を伝える客観的な言葉になってしまうため詞にあたる。対して「は」「ようだ」は三人称の主語でも客体化されず、常に話し手の把握や感情を示す。
重要なのは詞が辞に包まれているという発想だ。では、「花が咲く」はどうだろうか。「咲く」という詞は辞に包まれていないように思える。時枝は「咲く」のあとに辞が言表されないかたちで置かれており、それが詞を包み込んでいると考えた。これが零記号だ※。
以上の内容が分からなくても、「雨が降る」「花が咲く」などの客観的な現象を表すように見える文に、それを判断したり言い切ったりする話し手の姿が見えるようになれば十分だ。時枝はその話し手の断言や判断が文末に零記号として示されていると考えたのである。
この辞や零記号の考えを藤井貞和は独自に継承している(記事の冒頭に引用した詩もここから来ているだろう)。先の歌をもう一度引用すると、
「立ち別れ去なば……待つとし聞かばいま帰りこむ」という感情、または「(―因幡)の山の峰に生ふる(―松)」という景色、これらは歌のなかの世界の出来事として処理することができる。しかし、「いなば」「まつ」という懸け詞そのものはどうだろうか。あるいは、分裂した文がそのまま提示されることで文末に想定される二文を統合する零記号らしきものはどうだろう。これらは歌の世界に収まりきらないのではないだろうか。藤井が「歌の地下」にいる「真の主体」の言葉だと述べるのはこのことだ。
さて、ここまで辿ると記事冒頭の発言につなげることができる。
現代短歌だとどうだろうか。藤井は例を挙げていないので読者が問いを引き受ける必要がある。
二字空けを挟んだ上の句・下の句はたしかに分裂している。このような歌は現代短歌に多いと思うが、はたして真の主体は見えてくるだろうか。二文の分裂は歌の世界のなかで留まっているように思える。
筆者の考えでは真の主体を最も覗かせるのは笹井宏之ではないかと思う。
「えーえんとくちから」には「えーえんと口から」と「永遠解く力」の二重の意味が込められているが、上の句それ時代はどちらにも寄らない発話に擬したひらがなであり、真の主体の表出である。また、軍手を売って図書館を建てたいという願望のきらびやかな飛躍、しりとり風に連想される単語たちの浮遊、そこには真の主体らしき存在の影が見える。
ただ、これらの歌の魅力を藤井の考えに従わせたくはない。笹井短歌の魅力は、非現実的な語りが歌の地下から聞こえるのではなく、歌の上空、〈私〉の上から聞こえるところにあるのではないだろうか。そこにはもはや地上/地下という別はなく、〈私〉は真の主体と混ざり合い、非現実的な超越性を帯びている。笹井短歌を読んだときに感じる〈私〉の涙ぐむような輝かしさ、その孤立のさびしさの根拠はここにあるのではないだろうか。
※文末の零記号を辞ではなく陳述とする説明があるが(国語学辞典 訂正版)、『国語学原論』の文脈では陳述も辞の一種として捉えていると思われるので、ここでは辞に一括した。
2.うたの起源
古代社会で「うた」は歌謡と和歌の総称であったらしい。藤井は「うた」の語源について諸説を並べたあと、その発生について上のように述べている。
以降、藤井は折口信夫が示した文学言語の発生を神授の呪言に求める説、およびジュリアン・ジェインズが示した意識の発生に関する説(意識が発生する以前人々は神の声を聴いていた)を並置する。詳細は割愛しよう※。
注目したいのは、藤井が「うた」本来の姿をいにしえの神話的状況に求めている点だ。古き『古事記』の「歌姫」でさえ「〈起源〉の終わりでけなげに歌をつむぐ」に過ぎず、彼女らは「神の声を特別に聴くわけでなく、憑依が得意なわけでもない」。神々と交流していたころの「うた」には二度と遭うことができない。
それでも現代の〈私〉たちが、J-popでもいいが何らかの「うた」を「うたい」はじめたとき、心は即座に現実から優里する。苦しいときほど「うた」は現実逃避の手段として有用である。その体験の根拠を神々の世界に見ていいのかもしれない。
※折口信夫「国文学の発生」は青空文庫で読むことができる(特に第一稿)。ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』は松岡正剛の千夜千冊を参照した。
3.四人称
短歌の作者と作中主体が異なるのはひとまず常識になったと思うが、その「微妙な分離」、あるいは一致させようとする「腐心」に注目することはあまりなかったかもしれない。厳密には藤井の「詠み手」と「詠む主体」は作者と作中主体と一致する用語ではないのだが、ここでは割愛して人称の話をみることにする※。
興味深いのは「四人称」という考えかただ。四人称は歌物語などで作中人物が詠んだとされる歌を指す。彼/彼女が〈私〉として詠んだ歌だから三人称の一人称で四人称ということだ。
あえて疑義を呈してみよう。たとえば筆者の手元には加賀乙彦の『ある若き死刑囚の生涯』(ちくまプリマー新書、2019)という本がある。これはある死刑囚の日記体の評伝で、随所に獄中で詠まれた短歌が挿入されている。ということは、この『ある若き死刑囚の生涯』の読者にとって死刑囚の短歌は「四人称」であるはずだ。では、ある作家が詠んだ歌をその人生や性格を踏まえながら読むことは「四人称」とどう違うのだろうか? 藤井が述べた「詠み手じしんの〝吐露〟を創作する腐心」も、まさに「四人称」的な問題意識ではなかったか?
もうすこし考えよう。作家の情報を踏まえなければ楽しめない作品は駄作だろうか。筆者はすでに「個人の生活を詠んだ短歌を、これもまた個人の生活の範疇で読み交わすこと」を知り合いの文芸と呼んでいた。
知り合い間でつくられた短歌が不意に独立性=普遍性を獲得して秀歌に仲間入りすることがあるだろう。その秀歌はいかにも作者的でありながら、同時に大勢の読者の共感=追体験を誘うはずだ。そこにあるのは彼/彼女の語りが読者たる〈私〉のものとして獲得されるという、いわば二人称的な経験である。
重要なのは、いずれも短歌は〈私〉の表現であるということだ。一方では作者を通して〈私〉を受け止める四人称の経験があり、他方では作者を抜き取って〈私〉に当てはめる二人称の経験がある。では、一人称の経験とは何か? 作者が居つつ作者の存在が感じられなければいい。ある種の紋切型の……没主体的な……共感の歌……。
では、そもそも作者がいない短歌はどうだろうか。〈私〉たちはAIが出来るまでそんなものを考えることはできなかった。AIの短歌には〈私〉がいるが〈私〉がいない。いかに巧みな表現も作者の不在という奇妙な陥没がある。〈私〉たちはその解釈や共感を拒絶する。これをゼロ人称の経験と呼んでみてもいいのかもしれない。
※藤井のいう「詠み手」は「作歌の名目上の担い手」のことで、基本的には作者と一致するが、たとえば『源氏物語』の登場人物である明石の君が詠んだとされる歌の「詠み手」は紫式部ではなく明石の君である。また、「詠む主体」とは擬人化された語り手のことだ。
次回予告
「短歌五十音」では、初夏みどり、桜庭紀子、ぽっぷこーんじぇる、中森温泉の4人のメンバーが週替りで、五十音順に一人の歌人、一冊の歌集を紹介しています。
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次回は中森温泉さんが辺見じゅん『水祭りの桟橋』『天涯の紺』を紹介します。
短歌五十音メンバー
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