『フランケンシュタイン』から考える"悪魔"
『フランケンシュタイン』を読んだ。ここ最近読んだ中では群を抜いて面白かった。文学の力を再認識。
好奇心に突き動かされ夢中で悪魔を作った人間の苦悩と、作られた悪魔の苦悩。
悪魔とフランケンシュタイン(以下フラン)の関係性は、不遇な状況にある子が親に「なんで自分を産んたんだ!」という怒りをぶつけるのと同じように思う。
元々心優しい悪魔は自分の不遇な状況からフランに復讐心を燃やし、一方のフランは悪魔の嘆きに応えようとする程に自分を破滅に追い込み、復讐心を燃やす。
これは丁度人間を創造した神と、造られた人類の関係性にも似ている。不遇な人類はなぜ神々が我々を創造したのかを憂う一方で、神々は罪を犯す人類に禍をもたらす。
そんな二項対立が延々と続く。
親子が憎しみあい、時に生と死の狭間を彷徨いながらも復讐心を糧に生を選択し、物語が展開する。
その中でフランは何度も自殺しようとするが、その度に生を選択する。人間は何かにつけて必死に生きようとするもんなんだな、と感心した。
ところで、これまで僕は″悪魔″と言ってきたが、本当にその呼び名は適切なのだろうか?
この作品を読んでいると、決してそうは思わなくなる。なぜなら″悪魔″は人間視点の言葉だからだ。悪魔からすれば醜い姿で自分を作り、また自分を排除する人間は″悪魔″なのだ。
結局、自分とは異質の存在を″悪魔″という言葉で表現しているに過ぎない。たとえそれが悪ではなく、善の性質を持っていたとしても。
『千と千尋の神隠し』のカオナシは、『フランケンシュタイン』における悪魔に似た立ち位置にあると捉えられる。
カオナシは元々千尋に優しくする善の存在として登場するが、千尋に好意を拒まれるや否や暴走し、彼女を追い回す。鑑賞者はカオナシを″悪魔″と認識する。しかし、カオナシからしてみれば、自分を拒む存在が″悪魔″なのだ。
そして最終的には相互理解をし、話は終わる。
要するに、両作品に共通して言えることは「異質な存在である他者を相互理解する前に排除してはいけない!」ってことなんだと思う。
当たり前かも知れないが、相互理解は案外できない難しいことなんだろう。例えば、日本人は相互理解前から外国人を異質な存在と捉え、極端な話″悪魔″だと思っていると言えないだろうか…?
同様の例は山ほどあるはずだ。
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