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ダメ人間記録(1)

自分がどのやって作られてたか、ここに記録しておこう。こんなダメ人間はいない自信がある。自分を形成した原点を振り返り直視することで新たな発見があるかもしれん。

そう、生きてきてずーっとモヤモヤする。ほぼ、私なんか、私なんかー(泣)という人生だが時折、自分すご!という感情がひょっこり顔を出す。

最低二人は、私の中に同居してるな(°▽°)

●かごの鳥、幼少時代

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若い母とかなり年上の父との間に生まれた。
父はもういないが、彼が45歳くらいでできた待望の子供だった。
大正生まれの父で考えも古くさく、家を継ぐ男の子が希望。とても喜んだし可愛がったらしいけど。

高度経済成長期の追い風もあり、家は小さいながら事業で金回りがよくそこそこ裕福。まだ周りで車に乗る家庭も少ない中、キャデラックに乗ってたし、アップライトではあったけど高級なピアノもあって従業員が10名くらい住み込みで働いていた。お手伝いさんもいてとても賑やかな環境で育った。
大人たちに混じって、小さなお嬢様風で何不自由なく育った。

だがしかし、
これが人生を左右するダメ環境ということに気づくはずもなかった。

毎日、従業員たちにチヤホヤされ、お腹がすけばはいご飯。喉が乾けば、はいお水。従業員さんみんなに蝶よ花よと遊んでもらった。

自分中心の勘違い野郎に育つ環境が整っていたのだ。

ただ、両親はというと無駄に厳しかった。家の前が道路で危険ということもあり、外で遊ぶのは禁止で、外にでかけるのはデパート行く時と旅行の時だけ。結構、頻繁に行ってたな。
いつも車で行ってたから、池袋や新宿のデパート群は広大な庭にあるみたいなもの。車に乗って〜。はい!降りて〜。で着いちゃう( ^ω^ )
デパートでは、喉が乾けば果汁100%の生ジュースが飲め、ランチでは旗がたったお子様ランチ。きれいなお洋服を買ってもらい、お洒落して。絵に描いたようなお嬢の生活。(→自分の子供達には一切やっていない)
ありがたみのわからん子供になった。

一番問題だったのは、情報の封鎖。
親バイアスのかかった情報しか入ってこず、普段親は仕事で手一杯で私たち子供に何も情報を与えなかった。
例えば、
春になったね。たんぽぽがきれいだね。
とか。
買い物に行って、今日は何のご飯作ろうか?
そしたら、ジャガイモと、にんじんと、お肉と、、みたいな普通の会話がないのだ。

外の世界を知らないかごの中の小鳥だったと思う。

この状態はどういうことかというと、
全てが受け身であり、能動的にこれがやりたい、あれがやりたい、という選択肢はなく、、
とにかく意思のない端から見るとボーッとした子供に育って行った。

●マイペース、幼稚園時代

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デパートと幼稚園の違いもさほどわからないまま、幼稚園に入園。
ここが集団生活の入り口。いえ、地獄の始まり。
自分中心に生活してきた私は、集団のペースに合わせるという概念がない。そんな人が幼稚園に入ると、とにかくマイペース。先生にやんわりと注意される。親に心配される。時には怒られる。

今までお嬢様風(本当のお嬢様ではないので「風」をつけておく)でチヤホヤだったのに「この子は、ばか?」というように人々の見方が徐々に変わってくる。本人は全く気にしてないが卒園まで続いた。
ただ救いだったのは、年長さんの時の先生が良かった。全体の中の私ではなく、いち個人として見てくれる先生だった。今でも先生の愛情たっぷりの笑顔は忘れない。
幼稚園では、そもそも周りのペースについて行こうなどしていないので自分では苦労していないけど親は先生に言われるから苦労しただろうな。

●天使が友達、小学校時代

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小学校もある意味、地獄。
デパートで買った高級な洋服を着せられる。そうすると、目ざといクラスメート、特に男子はからかってくる。ブランドのロゴマークが、仮面ライダーのショッカーのマークに似てる、、、とか(笑)
親に、この服やだ!と初めて意思表示した記憶。だが親圧力は凄まじかった。怖かった。だから、我慢して着ていく。そうすると、からかわれれる。

温室育ちの自分には、外の世界はショックの連続。低学年のころは友達がいなかった(と思う)。いつも与えられてきた自分は、友達の作り方も知らない。
だけどそんな私は、家に帰ると「おともだち」がいた。

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羽が生えていて、いつ友達になったかわからないけど、日常的に押入れの上の欄間のところに座ってる。
そう、交信してた。

親や友達とはあまり話さなかったけど、その子とはずっと話す。質問してくるから、それに答えてた。だから友達がいなくても全然寂しくなかった。自分の理解者だからその時間、心地よかった。

「今日、学校どうだった?」
『〇〇ちゃんにこんなこと言われたw』

『宿題忘れて、ヤバかった』

とかね。


学校の方がサブで、その子との時間の方がメインな時間だったと思う。
学校の先生の話なんて、興味のあること以外はほとんど聞いてなくて、、。だから忘れ物も多いし、宿題もやってない。そうなると、親が全部指示出し、という図式になる。
宿題はしなかったけど、勉強はそんなに苦労しなかった。お金があったから英語習わせたり、英語セットを何十万もかけて買ったり。。湯水の如く教育費にかけてた印象。本人のやる気は全くなかった、ロボット状態w
週1回、外人の家に行ってレッスン。(今なら習いたい)
何のためにやってるのか、なぜここに来ているのかわからないまま通ってた。

ピアノも習い始めた。これも一緒。
両親は音楽を聞くことがなかったので、ピアノが何なのかもわからなかった。ただ、指先は器用でリズム感は良かったから、何となく続けることができた。
ピアノの先生がめっちゃ怖かったけど、与えられて生きてきたので、いやでも受け入れるという耐性ができ、辞めるという選択肢はなかったな。

これらの習い事のことは、学校ではトップシークレット。
とにかく、お嬢様感を出さないことに注力してた。
目立ってはいけない、静かに過ごそう。そんな感じ。

家庭が本当に厳しかった。

●小学時代の三重苦

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①放課後、友達と遊べない
②習い事は絶対優先
③中学受験
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①放課後、友達と遊ぶの禁止

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小学中学年になると、親の教育色が濃くなっていく。
この時期は、ピアノが中心になって、遊ぶより練習しなさい!ということだった。
やっと、友達もでき出して何よりも遊ぶことが楽しい時期。ドッジボールしたり、ガンバコっていうボール遊びやエスけん、ゴム段とこんなに楽しいことがあるんだ!と遅ればせながら目覚めていた。そんなだったけど、学校が終わったら真っ先に帰宅しなければ烈火の如く怒られた。

初めてお友達に家に遊びにおいでよ!と言われてめちゃくちゃ嬉しかった。親の許可を取らなければいけない関門があるのはわかってたが、絶対行きたかったので「いいよ」と言ってしまった。

学校から帰って、今までにないような勇気を振り絞って、
「◯◯ちゃんちに遊びに行ってもいい?」
と伝えた。(これだけのことが、恐怖すぎて普通に言えなかった)

間髪入れずに
「だめよ!」と言われた。
何を言っても、聞き入れてもらえず。。。結局、叶わなかった。

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当時は、引っ叩かれたり殴られたり、外に放り出されたりできた時代。家に帰るとダメと言われるので、学校から直接遊んで帰ってボコボコにされたり今でも鬼のような顔が思い浮かぶw
幼稚園から小学校に上がるまではチヤホヤされ、その後人間否定されるのなんて当たり前で、殴られるわ、外に放り出されるわ。

だんだん親への不信感が募っていく。

親にも友達にも嘘をつくようになり、気に入らない子をいじめたり。自分の中に、何か満たされないものが溜まっていった。
小学34年が一番酷かった。

そんな時、特定の男の子をいじめてバレた事件をやらかした。

これがきっかけで、ハッと目が覚めた。
その時の担任の先生も素晴らしく、「個」を大事にしてくれる先生だった。

その先生にも諭されて、これはいけない、と。
自分の憂さ晴らしのために人に迷惑をかけてはいけない、と。

親と共にその子の家に行き、謝った。

この時、他の子達と自分の違いに気がつき始めた。
自分はどこか自分を斜め上方向から見ているところがあった。みんなは、とても無邪気で、もう忘れてしまってその時に感じたような表現はできないが、子供っぽいと思った。本能のままに行動しているから。
自分は、どこかでみんなと同じような子供っぽい人物を演じていたと思う。
そうじゃなきゃ、変人みたいだし。
学校ではいつも自然にお芝居していて、小学生にしては「自意識」が高かった。

②習い事、絶対最優先

習っていた英語は上達するはずもなく、親は半ば諦めた様。
ただ、ピアノは違った。
家に帰って、真っ先にすることは

「ピアノの練習」

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ピアノというのは、毎日練習しないと上手にならない習い事。
音楽を楽しむ、というより指の体操をしていたって感じ。
小学生が自主的に練習なんてするはずないよ、、
母親が隣について、できるまで弾かせるスタイル。
これは最悪で、、隣でいつも怒ってるし、拷問のよう(笑)
一人で練習する時でも、音が出るものだから全然サボれないし。

そのおかげもあって、小学卒業時にはまあまあ弾けるようになってた。
結果的に音大に進んだ。(これは実力ではなくちょっとしたコツで入れた😅)

余談だけど、音大に入ってくる子は、皆

「忍耐強い」

これが共通する能力。
だって、ピアノってひたすら地味な練習よ。
ドミファソラソファミ、レファソラシラソファ・・・・
みたいなやつ。
友人達に聞けば、親やピアノの先生が鬼のようだったらしいw
その辺り、似た環境の子が多かったので自分だけではなかった、、と救われた学生生活だった。

③中学受験で終了

東京に住んでたけど、当時は今ほど中学受験組は多くなかった。
クラスに三人くらいだったかな。その中に私も入ってた。
学校では、とにかく目立たないように、、という信条の元で生活していた私には辛すぎた。。
受験組は「目立つ」のだ。

その時の先生が
子供は遊んでなんぼ!
という先生だったので、受験には否定的だった。
毎日、嫌な顔をされ学校行くのが苦痛だったな。

いや、、受験は私の意思ではないんだが。。

中学受験塾に行くようになり、
塾自体は友達もできて、楽しかったけど
家に帰ってからが受難。

なぜか。

父が登場するから。
父は、厳格で賢かった、っていうか算数が得意だった。
その父から、算数を教わった。
昔ながらの教え方で、私は算数がそんなに得意ではなかったし苦痛でしょうがない。(後々この時の勉強はかなり役立った)
中学受験の算数は昔、算術と言われており

割合、つるかめ算、流水算、速さの問題、、などなど。
方程式は使わないので原始的な方法で解いていく。メリットとしては、原理原則が身に付くこと。難しい問題は解けなかったけど、基本はできるようになった。

ピアノの時もそうだけど、基本泣きながらやった( ;∀;)

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うろ覚えだけど、あまりにできなくて泣きながらテーブルの上に立たされた。あれは何だったのだろう。意味がわからない( ̄▽ ̄)

父と言えば、塾の帰りが遅いから毎回自転車で迎えに来てた。
女の子が夜遅くなるから、心配だったのだろう。
私は、迎えにきている父が嫌いで嫌いで、、
こないでよ。。と心で呟いていた。(思春期入りかけにあるあるの父親嫌い。今では感謝しております😅 もう亡くなってしまったけど。)

そんな塾生活も、受験本番で終了。
第1志望は、見事落ちました😆
まあ、そこしか受験してないのだけど。
(実はこの試験、できは良かったから受かったと確信したのだけどいろいろあって落ちた。ああ、、)

そんなことで、最後は大失敗のうちに小学校生活を終える、という結果でした。
小学校生活は、「自分」というものはどこにもなかったに等しい。
天使ちゃんと交信してた時くらいだろうか(笑)


※次回に続く



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