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私の淹れたコーヒーが美味しかったわけ

(コロナ禍になる前)友人宅でホームパーティがあり、いろんな人が集まった。その中にコーヒー豆販売のビジネスをやっているという人がいて、希少な豆、コピルアクを持ってきた。

コピルアクとは、インドネシアのマレージャコウ猫の糞から採った未消化のコーヒー豆で、ジャコウ猫1匹から採れる豆はごくわずか、コーヒー一杯分にもならないため、希少価値が高く100gで4,5千円以上で売られている。

その人は豆の宣伝も兼ねて自分で美味しく淹れたコーヒーを皆に飲んでもらいたかったのだが、急用ができ帰ってしまった。そこでコーヒーのお店で修業を積んだ、バリスタライセンスを保持する私が「美味しいコーヒー淹れます!」と名乗りを上げた。

ドリッパーが小さくて1回に2,3人分しか淹れられないので数回に分けた。飲んだ人は希少な高級な豆という前情報があったのでよけい美味しく味わっていた。
豆がよければ淹れ方が多少適当でもまずくはならないと思うのだが、途中で私と代わって友人が淹れたコーヒーを飲んだ人からは
「なんかあんまり美味しくないね」「淹れる人が違うとこんなに差がでるんだね」という感想。
私が淹れたコーヒーと比べてみると明らかに違う。この差はなんなのか?

ひと言でいうと「心・愛情」ではないだろうか。
私はバリスタ、プロだから美味しく淹れられるに決まっているというおごりがあったらまた違う味わいになっていたかもしれない。
淹れる前に「希少な豆に感謝を込めて、皆が美味しく飲めるように心を込めて淹れよう」と思ったが、淹れている最中はほぼ無心だった。
一方、友人は雑談しながらただ湯を注いでいただけだった。
なんにでも思いは宿るんだなって思った出来事だった。

それから自分で食事を作る時は「美味しくな~れ」の魔法をかけている。
外食する時は、作り手が食材を大切にし、丁寧に調理をしているか、チェックするようにしている。

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