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誕生日に仕事を辞めた

子どもがいたら強くなれると思ってた。
いや、なった。確実になった。
でもなんでもできるようになるかと言えば違った。
守るべきものが2つ、子育てと仕事。
そりゃこんな私に両立できるわけないだろうと笑ってしまった。
長年勤めた会社ではない、たった数カ月の試用期間だ。
しかも、まともに働くのは数年ぶり。
完全に助走が足りずパンクした。
でも絶望するどころか、これからにワクワクしている。
ちょっとやばい奴だろうか。

私は絵に描いたように不器用で仕事ができない。
30過ぎてから大人のADHDというもの知った。
精神科の受診やカウンセリングも受けたが当時今ほど発達障害に関する情報は少なく、恐らくグレーゾーンだろうと自分では思っている。

若いころは「ちょっと?いや結構うっかりした人」で許されたが(許されない時もあったけど)
年を重ねるにつれて、どんどん自分がちぐはぐな人間になっていくのが怖かった。
「できない人間」と思われたくなくて、せめて努力の爪痕だけでも残そうと四苦八苦しストレス溜めて自滅するパターン。
自分がどう思われているのか、失望されないだろうか、毎日気を張って暮らしていくことに消耗していた。
人はそこまで自分に関心ないのに。「所属」することがつくづく苦手だなーと我ながら思う。

そんな私に人生を大きく変える出来事が出産と育児だった。
生まれた息子は数万人に一人に起きる珍しい病気を抱えている。これまでの人生観は大きく覆り「とにかくやるんだよ」という毎日。普通の育児でも共通するところではあるが、医療的ケアなんてものが挟まると「ちょっと今のルーティン覚えられる自信ないんで、もう少し練習させてください」=退院が延びる=お母さん手技獲得まで家にかえれま10! なのでのんびりしていられない。

日常も母の勘というものが子の生死を分けるなんてことに成りかねないかもしれない。「いつもとなんか違うんです」センサーを張っておくことの重要性を感じたことが何度もあった。ただでさえヒヤリハットセンサーなんて、ADHDの日常ではぶっ壊れてる。
子どもの安全、命を守るために日常のちょっとした忘れ物なんて許してくれ。
今の傘は何本目かって?子どもを置き忘れてないから許してくれ。
子どもが体調崩し緊急入院したその日に、身分証やクレジットカードの入った財布を落とし近所の交番で泣きながら遺失物届を書いた翌日、車のすぐ下に落ちていたのを見つけたくらいは・・・・許してくれ。

3歳の夏、医療的ケアがある息子は数々の幼稚園から入園を断られていた。
身体が弱い子だったら私も無理に幼稚園に行かせたいとは思わないが
なんせよく動く。走るしお喋りだ。
難病を宣告された時はこんな未来想像できなかった。
こんなに強く育って(感動の涙)・・・も一瞬の嵐である。
「さっき公園行って散々遊んだでしょう。またお散歩して別の公園行きたい?!」
白目剝きながら息子と毎日のように外遊びをしていた頃
「息子さんも、たくさんのお友達と一緒に過ごして社会性を付けていけるといいですね」と主治医、看護師、療育の先生etc
信頼する人達に背中を押されて重い腰を上げて園探し。
市内、時には市外の幼稚園の門を叩いたが結果は所謂「箸にも棒にもかからない」状態だった。
毎回私に連れられて初めて「ようちえん」という世界を見学した息子は
見たことない数の「おともだち」に大興奮。
あのカラフルな滑り台や広いお砂場で自分はいつ遊べるのだとワクワクしている姿を見て心を痛めた。
そして悔しかった。
我が子はかわいい。勇敢で賢くたくましく生きている。
誰に何を言われようが私たちの日常は、私たちにとってふつうの日々で繰り返して今の当たり前を作り上げた。
今更「健常児」と呼ばれるお子さんと我が子を比べて落ち込むなんてことは無いが、それでも他の家庭が経験しないであろう、言われないであろう、たくさんの偏見やハードルを越えることができない。
そんな自分が悔しかった。

『・・・・・このままでこの子を狭い世界に閉じ込めておくわけにはいかない。自分のできなさを棚に上げて、働きたくない、これ以上負担増やしたくないと言っている場合ではないぞ』
私は鼻息荒く「働く」を選択した。
市が管轄する保育園なら、息子のように医療的ケアがあるお子さんの受け入れをすることは責務となっているので「母親の就労」は立派な就園理由だ。
前のめりで就活をして会社に受かった。
少し挑戦的な業務内容でも、なんせ4年ぶりにまともに働くのですべてが新鮮で面白く感じた。
過去の失敗、トラウマなんて乗り越えてやる。愛する息子がいるんだから。
このままの勢いで自分は変われる。


・・・・・・・完全にペース配分を間違えた。
数か月経って小さな違和感が膨れ上がるのは早く、自信というものがぽろぽろと崩れ始め、あっという間に決壊した。
元気だった息子が度々体調を崩し入院したことも響いた。
子どもを言い訳にするなんて。とも思ったがこの子を守れないなんて本末転倒以下だ。
少し前の自分なら誤魔化しながら悪あがきしていただろうな。

退職した後、slackの通知音が鳴らなくなったことにほっとした。
毎日おはようからおやすみまで、息子の目を見て今だけを考えられる。

さあこれからどうしようかと悩んでいた時に友人からのお誕生日おめでとうラインが届いた。
私は自虐的に「仕事を始めたのにすぐやめちゃったよー。」と笑ってもらうつもりで送ったら「働こうと思うだけで偉いよ!!またいつでも働くことはできるよ」と思わぬ返事にハッとした。


周りは優秀な人たちばかり。世の中は共働きがスタンダード、障がい児母でもワーママは珍しくない。みんな必死で自分の大事なものを守っている。
そんな強くかっこいい母に近づいてみたかったんだ。
できない自分は情けないとばかり思っていたが難病児育てながら働こうとしたことだけでも大きな一歩踏み出せたじゃないか!!

その1週間後、知人から声をかけられて期間限定で新しいアルバイトを始めてみることにした。
私の得意分野を知っている夫は「そっちの方がらしくていいよ」と笑っている。やりたいことをやる。そんなシンプルな選択ができるって嬉しいな。
相変わらずドタバタぎこちない人生だが、今更美しい線を描く人生には憧れない。

例えるなら映画「フランシス・ハ」のようなエンディングのようになれたらいい。

当時、主人公フランシスより後輩だったのに今はすっかり先輩世代。


















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