自転車に乗るすべてのひとと、自分へ
妊娠初期に自宅で絶対安静という期間を味わって「自分の中で考え方が変わったなあ」と思うことは多々あるのだが、そのひとつが自転車に対する意識だった。
約2ヵ月にわたり、病院へ行く以外は家でひたすら寝たきりでいた当時。ようやく安静指示が解除され、ものすごくひさしぶりに、歩いて買い物へ行くことにした。
筋力が弱ってふらつく体。ひさびさの外の空気にクラクラしながら、ゆっくりそろそろと、歩道を歩いてゆく。
ちょうど夕方だったのがいけなかった(それ以降の外出は時間を選ぶようになったが、ひさびさすぎて通勤ラッシュという概念を忘れていたのだ)。
帰宅中の学生やビジネスマンが乗った自転車が、信号の変わるタイミングでどどどと一気にやって来る。とろとろ歩くわたしの横を、至近距離で次々に通り過ぎてゆく。びゅんっ。びゅんっ。
ただそれだけの、健康なら気にもとめないよくあるワンシーン。でもそのときわたしは、いまだかつて味わったことのないほどの恐怖を感じた。
だって一歩間違って接触すれば、お腹の中でこの2ヵ月、我が身を削りながら必死になって守ってきた命が、一瞬で消えてしまうかもしれない。それは死の恐怖だった。
怖い、怖い、怖い、怖い。
ふらつく体で自転車を避けきる自信がなく、のろのろゆったりと這うように歩くことしかできない自分は、自転車を見かけるたびにハッと怖くなり、道のはじに止まって、自転車の群れが通り過ぎるまで身を固くしてジッとしていた。
スポーツや趣味で自転車に乗っているような方々は、危険性を熟知し車道を走っている方が多いのでむしろ安全である。もっとも恐ろしかったのは、横並びになって歩道を走ってくる男子高校生の集団であった。
端っこによるのが間に合わず、中途半端な位置に立ち止まってしまうと、右から左から、自転車に追い抜かされる形になる。私はその場に石像のように静止した。心臓がドキドキして、冷や汗をかいた。
* * *
でもそんな経験をしたとき、「けしからん!」と叫ぶ資格は、わたしにはまったくないなと同時に思った。
わたしは、高校生や大学生のころの自分の自転車の乗り方を、その意識を、ふりかえって心から反省するしかなかった。
高校生のころは毎朝、地元の駅まで自転車だった。家をギリギリに出るので(まずこれが間違い)、力の限りぐいぐいと自転車をこいでいた。もちろんぶつからないように気をつけてはいるつもりだったけれど、今考えれば周りへの配慮の意識なんて半分以下かもしれない。
前のおばさんの自転車がなんだか遅いなあ、なんて思えばスピードをあげて抜かしたりして調子にのっていた。田舎だったので、真夜中、自動車のいなくなった車道の下り坂をシャーッとブレーキもかけずに飛ばしながらスリルを楽しんだりもした。万が一あるとき誰かが飛び出してきたら、いったいどうなっていたのだろう。
だから横並びになってスピードを出したまま、おばちゃんの私を追い抜いてゆく高校生の集団に、何も言えない。これは過去の自分だと思った。ああ私も、同じことをしていたのかもしれないと。
でも、怖かった。ほんとうに怖かった。恐怖だった。自転車の気配を背後に感じるたび、お願いだから殺さないでと、心のうちに唱えていた。
だからその気持ちを忘れないようにここに書く。書いて、何がどこまで届くのかはわからないけれど。
* * *
話はちょっと変わるのだが、20代後半のころ、スマホを触りながら歩道を歩いていて、前から結構なスピードで走ってきた自転車と正面衝突したことがある。
下腹部あたりで自転車のスピードをもろに受け止めてしまい、一瞬息ができなくなり、その場にうずくまった。
相手は中学生か高校生くらいの男の子で、向こうもびっくりして「大丈夫ですか」と自転車を降りて寄ってきてくれた。そうだ。悪い人ではない。事故を起こそうと思って起こすひとはいない。故意に起こしたらそれは事故とは呼ばない。
わたしはすぐには動けずそのままじっとしていて、痛みがおさまるのを待った。しばらくして、どうやら骨も折れていなそうだとわかり、立ち上がることができたので、特に警察を呼んだりすることはなく男の子とわかれた。
このときはスマホを見ながら歩いていた自分にも責任があると思ったので、「わたしも画面を見ていたから、ごめんなさい。これからは、お互いに気をつけよう」とだけ言って。
……というエピソードを、改めていま思い出して、ぞっとした。
もしこのときの私が、妊娠初期だったら。自転車を受け止めてしまった瞬間、子は確実に命を失っていたと思う。ぶつかった方もぶつかられた方も、永遠に癒えない傷を心に追ったかもしれない。
ありえないなんて誰が言えるだろう。ありえる、そんなことはたやすくありえる。妊婦といったって初期はお腹も目立たないし、パッと見は普通の体型だから、相手側も事前に知ることすらできない。
もう、ほんとうに、紙一重なのだ。
* * *
そしてお気づきのとおり、これは妊婦にかぎった話ではない。
車椅子の方や杖のついたご老人など目に見える形で避けづらい方はもちろんのこと、妊娠初期のように「目に見えづらい」なにかを抱えているひとも大勢いるはずだ。
一見若くて健康そうに見えるひとでも、たとえば耳の聞こえない方や目の見えない方もいれば、足の動きに制限のかかるなにかを抱えている方もいるかもしれない。脳や心の病気で、素早く突っ込んでくる自転車に対応するのが難しい方もいるだろう。
自分が想像すらもできないほどの多様なひとびとで、街は構成されている。
「このくらい避けられるだろう」という基準は、自分のものでしかない。
この視点が、かつての自分にも欠けていた、と思う。
* * *
その後わたしはなんとか無事に出産することができ、今では毎日のように子載せ電動自転車に乗っている身だ。
でも自転車に乗るときの意識は、明らかに、変わった。
もちろん子を載せているときは「子の安全にも気を配る」という新たな任務が加わったという意味での変化もあるのだが、ひとりだけで乗っているときにも、大きな変化がある。
全体的にスピードを出さなくなったのはもちろん、人のいる場所を走るときは、たとえ接触してもケガしないよう、大幅なノロノロ運転しかできなくなった(もちろんあまりに混雑した場所であれば降りて自転車を押す)。
急いでいても、無理をすることを、意識的にやめた。
前から歩いてくるひとは、もしくはいま追い越そうとしているひとは、もしかしたら妊娠初期の妊婦さんかもしれない。もしかしたら何かしらの病気を抱えて瞬間的な対応が難しい方かもしれない。人とすれ違ったり追い越すような状況では、頭でそれを言い聞かせるようにしている。
「急いでいたんです」。その心持ちが、もし万が一、あの頃の自分のようなひととの衝突を招いてしまったら。もし、小さな命を奪ってしまったら。想像するだけでも苦しい。
そんなことになるくらいなら、多少遅刻して怒られたり嫌なヤツだと思われたほうがよほどマシだ。まあ一番は、余裕を持って家を出ることだけれど。
そういいつつも最近は、日常的に自転車に乗るようになって、自分でも「出産明けに初めて自転車に乗ったとき」と比べると、「慣れ」が出てきてしまっているかもなあ、と感じている。
そういうタイミングが、危ない。スピードを競うレース場じゃなく、生活圏内を走る普通のママチャリだって、いつだって事故ととなりあわせなのだ。
だから自分のためにも、このタイミングで改めて書いておこうと思った。
妊娠初期、絶対安静明けに味わったあの恐怖を、何度でも思い返そう。
とりかえしのつかないことを、自分が招かないように。
そして願わくば、普段よく自転車に乗っている中高生や大学生の方々ご自身が友達どうしで、またはその親御さんがご家族で、ほんのちょっとでもこんな視点もあるのねと話題にしてくれたなら、ほんとうにありがたいと思う。
(おわり)
※今回のテーマの下書きはずうっと、Evernoteに眠っていたものでした。書くのにパワーがいるなとお蔵入りしかけていたのですが、ハッシュタグ企画に背中を押されて、ようやくまとめてみました。
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