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通訳はつらいよ2 「左に見えますのは‥‥と、‥‥もう、見えなくなりましたが‥‥」

今も、たまに夢に見る:
走るバスの中で、
➀ キルギスの現地ツアーガイドが、ロシア語で名所の説明をする。
「Здание оранжевого цвета слева от ……」
→➁ それを、ロシア人ガイドが英語に訳す。
「The orange-colored building on your left is ……」
→➂ その英語を、僕が日本語に訳す。
左に見えるオレンジ色の建物は、‥‥
→➃ しかし、そこにはもう、何もない。建物は、とうにバスのはるか後方だ。
‥‥って、もう過ぎ去ってしまいましたね‥‥
ツアー客は一斉に車窓を後ろに振り返った後、戸惑いながら僕を見る。

僕は24歳で、カスピ海と天山山脈の間に広がる中央アジア5か国をめぐるツアーの、「客」のひとり、の筈だった。


その前年に結婚した時、経済的制約のため、いわゆる入籍直後のハネムーンはどこにも行っていない。
それから1年ちょっと経ってから、何とか手が届く海外旅行ということで、極東ロシアのハバロフスクを起点に、キルギス、カザフ、タジク、ウズベク、トルクメンの5か国を周遊する2週間のグループツアーに申し込んだ。
これらの国々が、まだソ連領だった頃のことだ。

たまたま立ち寄った某旅行社で、支店長A氏から、そのツアーを熱心に勧められたのだ。
妻の第一希望・北欧は高価でとても手が届かず、「長期&安価」なソ連領中央アジアは、夏休みのある学生と産休代替教員のカップルには、ぴったりしているように思えた。

A氏が熱心に勧めた理由はやがて判明した。
既に50代半ばと思しきこの人自身がその旅の添乗員であり、ツアーを成立させるべく、人数集めに躍起だったのだ。

「いやあ、今回は、大物支店長が自ら添乗員を買って出ましてね」
手続きのため、支店を再訪した時に、若い係員が半分おどけた感じで言った。

買って出た》理由は、旅の最後の日の朝、ハバロフスクのホテルで明らかになる。


ちょっと、ご相談があるんですが……
新潟空港からハバロフスクに向かう飛行機の中で、A氏は僕の席にやってきた。
「弱ったことになりました。ハバロフスクから連絡がありまして、現地の日本語ガイドが全部出払っていて、英語を話すガイドしか残っていない、ということなんです」
「へ? そんなこと、今わかったんですか?」
「そうなんですよ。ところが私、英語は全然だめなんです
A氏は、『私、ゴキブリは苦手なんです』風に言った。
「‥‥はあ」
(そんな人が、なぜ添乗員を《買って出た》んだろう?)
「それで、今回のグループで唯一の現役学生である、Tさん(僕)に、通訳をお願いできないかと思いまして‥‥
「はあ?」
「申し訳ありません」僕に頭を下げた後、A氏はニッと笑った。
「でも、これもいい旅の思い出になりますよ

15人ほどのそのツアー一行は、幼稚園経営の老夫婦1組、母娘1組、そして我々夫婦を除けば、全員が一人参加の、しかも多くは夏休みのある中学や高校の教職員だった。

断ることもできた、かもしれない。
僕の悪い癖だが、当時も今も、自分の能力や状況をあまり考慮せずに、頼まれると──多くは好奇心から──引き受けてしまう。


ハバロフスクでは、ちょうど大雨の後だった。増水し、一部は決壊したアムール川の岸辺で、いくつもの家屋が土台ごと崩れ、流されようとしていた。
その傍らで、海外観光客向けの遊覧船が濁流に浮かび、外貨を稼いでいた。
──個より全体を優先する、社会主義経済の凄みである。

ハバロフスク アムール川大洪水

ハバロフスクから一行に加わったガイドは、40歳ぐらいのロシア人女性で、おそらくは観光局の公務員であろう、真面目かつ実務的な人物だった。

到着日は市内観光をした。
僕はバスの前方にロシア人ガイドBさんと並んで座ってマイクを握り、Bさんが僕の耳元で話す英語を日本語に訳していく。Bさんの英語はきわめて明瞭でわかりやすかった。
(‥‥なんとかなりそうだな)
バスは前方に年配の客が座り、後方に20代30代が座ってわいわいやっていた。妻はいつも一番後ろの座席にいた。

革命戦士の墓など、観光名所で下車した時も、僕はBさんと並んで歩き、彼女の説明を日本語に訳していった。

その傍らで、添乗員A氏は、ツアー客の写真を、名所を背景に撮ってあげていた。
中でも、ひとりで参加していた、50歳前後の女性のスナップをよく撮っていた。

市内観光が終わり、ホテルで夕食の時間になると、A氏は僕のテーブルにワインを注ぎにきた。
「Tさん、本日は通訳のお仕事、おつかれさまでした」
と深々と頭を下げて。
ただし、ワインはA氏からのおごりではなく、70代後半と参加者中最も年長の老人をうまくいいくるめて買わせたものだった。
そして、顔を上げ、ニンマリと笑った。
「これも、いい経験、いい思い出になりますよ


ハバロフスクで一泊した後、悪名高い国営アエロフロートに乗り、キルギス共和国の首都フルンゼ(現在の名はビシュケク)に飛んだ。

そして、バスの中で繰り広げられるのが、冒頭のシーンである
《ロシア語→英語》通訳が付加されただけで、ハバロフスク市内観光とは、様相が一変した。

フルンゼ 革命戦士の墓

バスを降りての見学観光は、建物が後方に飛んでいかないだけまだましだったが、現地ガイドとロシア人ガイドと3人セットで歩き、ロシア語→英語→日本語、と伝言ゲームを延々と続けた
過半数の参加者は、そんな説明など聞かず、写真撮影に余念がない。いっそ、全員がそうならば通訳も不要なのだが、数人は熱心に耳を傾けているから始末が悪い。

ツアー客から質問があると、伝言ゲームは往復便になる
さらに、その質問を現地の人に投げる時には、現地ガイドのキルギス語⇔ロシア語通訳がこれに加わる

市内の幼稚園を訪問した時は、一行中の幼稚園経営者が、
「先生の給料はいくらですか?」
「子供たちの親の収入はどれくらいですか?」
と先生を質問責めにした。
Bさんは、途中で顔がこわばり、
日本人は、お金のことばかり聞いてくる
と《僕に!》嫌味を言った。


キルギスを皮切りに、カザフ、タジク、ウズベク、トルクメン、と各国巡りが始まるのだが、《通訳》にとっては、いつも同じパターンの繰り返しだった
走るバスの中、➀ローカルガイドがロシア語で説明し→➁ロシア人ガイドが英語で訳し→➂僕が日本語で訳し→その時には、もうバスは説明対象から遠ざかってしまっている。

アルマアタ ゼンコフ教会

A氏は相変わらず、ノー天気にカメラ係と化していた。やはり、50歳前後の女性を撮影している確率が高いように思った。
この女性は独身で、高校の事務職だと自己紹介していた。ツアーに巨大なトランクを持ち込んでおり、毎日衣装を変える。それはいいのだが、その服は、ワンピース、ツーピース、パンツスーツと形変われども、なぜか全て桃色系統だった。
その衣装替えを見ていると、《桃色信仰》のような教義があるのかもしれない、とさえ思うほどだった。
(僕と妻は、彼女のことを、陰でひそかに《ピンクババ》と呼んだ)


バスの一番前と一番後ろに毎日別れて座るハネムーン・カップルを最初に心配しだしたのは、ロシア人ガイドBさんだった。
「Tさん、あなたの奥さんは怒っているのではないですか?」
「本当にいいのですか? 悪いのはA氏なんだから、あなたは通訳を断ってもいいんですよ」

そして、旅が後半に入った頃、相変わらず無責任路線のA氏に対して、Bさんはついに怒りを爆発させた。
「Aさん、あなたはズルい! もう、Tさんに通訳を頼むのはやめて、奥さんのところに返してあげなさい!(この怒りのセリフも、僕が通訳しなくちゃならなかった。トホホ‥‥)
そして僕に向かって、
「あなたはもう、通訳しなくていいです! Aさん自身になんとかさせます!」
と宣言したのだ。

この宣言を受け、僕は、妻や、一行中の気が合う若手(この頃は皆で隠れニックネーム《ピンク婆》なども共有するようになっていた)が集まる、バスの後方に座ることとなった。

なんとかさせます──といっても、できないものはできない。
結局、A氏は、一行の中で、僕の次に「英語」に近そうな、ひとり参加の大学教授に通訳を頼みこんだ。
旅の後半は、この先生が苦労を引き受けることになるが、他に手段がないこともあり、ロシア人ガイドBさんも、これ以上の介入は諦めたようだった。

サマルカンド レギスタン広場


さて、旅の終わりは再びハバロフスクである。
ソ連時代のアエロフロートにはよくあることだが、何の理由も告げられず新潟行が飛ばない足止めを2日間食った後、3日目の朝5時に、
「新潟便が出る!」
と、ホテルから突然の連絡でたたき起こされた。

僕らは、とにかく急いで着替え、それぞれのトランクをロビーに運んだ。
一行の過半数は、既に集合していた。

──ところが、添乗員A氏の姿がない。
時間が限られる中、A氏がいないと荷物をバスに運べない、とロシア側の送迎担当が言う。
僕らは、彼の部屋番号を訪ねてみたが、まったく反応がない。
「どうしたのかな?」
とにかく、まだロビーに来ていないメンバーのドアも叩いて回った。

その時である! ──A氏が別の部屋から出てきた。
それは、ピンク婆のひとり部屋からだった!

バツが悪そうに自分の部屋に戻ると、ロビーに降りてきたA氏は、全員の荷物にタグを付け始めた。
参加者はもう、誰ひとり手伝おうとはせず、冷ややかに眺めていた。
そこに、ピンク婆が──もう二人の関係がバレてしまったからだろう──A氏のタグ付けを、《甲斐甲斐しく》手伝い始めた。

若手のひとりが僕に耳打ちした。
──《邪悪な》話でしたね


A氏がニンマリ言っていたような《いい思い出》では決してないが、結果的には鮮烈な思い出になった──最後の《オチ》のおかげで


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