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高野洸 "ex-Doll" の切なさ

昨年から待ちに待った、高野洸の新曲。

世に出て一週間くらいだろうか。

じわじわと感覚に言葉が追いついてきたので、つらつらと書き記していきたい。



8th シングル "ex-Doll" 概要

高野洸の8th シングル "ex-Doll" は、ソロデビュー5周年を迎える2024年1月30日にリリースされた。

【収録内容】
1. ex-Doll
2. Paradise
3. チクタクタ

▼ストリーミング・ダウンロード


"ex-Doll" インタビュー記事

まずは、各メディアでのインタビュー記事をまとめておく。

avex portal


NEWSポストセブン

PART1

PART2

PART3


週刊女性PRIME


BARKS


"ex-Doll" を味わう

去る1月8日、5周年記念ライブツアー "mile" の追加公演で、ひとあし先に新曲 "ex-Doll" のパフォーマンスを拝見することができた。

その時に真っ先に感じたのは、
「切なさ」だった。

いやなんでだよ、と今でも思っている。

「人形にならず自分らしく踊る・生きる」というコンセプトと、アーティストデビュー5周年というタイミングの、めでたく華やかな位置づけの曲で、あたしゃなんで「切なさ」を感じているんだよ、と。


わたしなりの結論は、
「決別」の歌でもあるから、というものだ。

もしかしたら、わたしが感じている「切なさ」は、コード進行とか、旋律の妙とか、ラウドネス・音数とか、世情のタイミングとか、まあいろいろ要素が重なっての結果かもしれない。

しかし、音楽の専門的・技術的・構造的な知識が皆無で、かつ高野洸自身のことに未だに詳しくないわたしには、それを論理的に理解することは叶わず、ただただ、感覚的に見えるもの・聴こえてくるものを頼りにその「切なさ」の正体を紐とくほかない。

というわけで例によって、歌詞をじっくり眺めてみよう。


"ex-Doll" の歌詞を眺める

先に延べた「決別」とは、「過去の自分との決別」だ。

歌詞にあるその過去の自分の姿を見てみよう。

脚光を浴びる ツクリモノの自分

銀幕に映った自分

羨み諦めた あの日の自分

"ex-Doll" の主人公はこうしていつかの自分に別れを告げていくわけだが、その決別は晴れ晴れしさよりも、少し影がある印象だ。

「切ない」と感じてしまうのは、過去に味わったであろう苦味がつい感じられてしまうからだ。

たとえば、

手足に繋がれた糸は断ち切れた
もう誰にも操れない

の部分。

ここの歌詞から見えてくる前提は、いつぞや「手足に繋がれた糸があった」ということだし、かつて「誰かに操られていた」ということだ。

どこか悲しげな過去が垣間見えてしまうのだ。

そして、そうした過去の気配を感じながら、「今」の状態が見えてくる。

まず感じるのは、「ゆらぎ」だ。

見えないワイヤーで浮遊
現状に I'm doubtful

On the red carpet 上がる歓声
この瞬間の 僕は誰? (Who am I?)

現状や、歓声をうける自分自身への疑心が描かれる。

端的にいえば
「今の自分に納得できていない」
のだと感じられる。

それから、後半でくり返し歌われる

I'm swayin'

というフレーズも「ゆらぎ」の象徴といえそうだ。

というのも、"sway" は「揺れる」という意味だが、単に「踊る」という身体的な意味だけでなく、精神面のゆらぎにも聴こえてくるからだ。

そんな「ゆらぎ」とともにあるのが、「別れ」だ。

この曲には、たくさんの決別や抗い、そして自問自答が見られる。

「銀幕に映った自分に手を振る」
「手足に繋がれた糸は断ち切れた」
「この瞬間の僕は誰?抗って」
「羨み諦めたあの日の自分はもうどこにもいない」
「そんなんでいいの?いい訳ない」

これらのフレーズも、きっとわたしが感じた「切なさ」の理由のひとつのような気がしている。

だって、言葉を選ばずに書いてしまえば、とらえ方によっては自己否定なんだもの。

直視したくなかったり、納得できなかったりした「あの日の自分」のことも、ちゃんと自分自身なんだって抱きしめられたら、いいのにね……。

とはいえ、この楽曲の背骨は「人形にならず自分らしく踊る(生きる)」というテーマだ。

それを象徴するのは、「決別」の先にある「これから」の部分だ。

「遠慮は要らない 感情と共に踊ろう」
「自分の為の Perform」
「僕は僕で在り続ける」
「自分の意志を頼りに Walk this way」
「顔を上げて 跳ね除けていく Pressure」
「ステージ上 縦横無尽に羽ばたく」
「自分に従順でいい 解き放つ 自由に」

ここまであれこれと過去の残像や、推察される現状を書いてきたが、つまるところ一番云いたいのは、これから「どう在りたいか」「どう生きたいか」という未来の話なのだろうと察する。

この楽曲は、主人公の自問自答の末の「決意表明」だといえる。

「ワイヤーで浮遊」するのではなく自ら「舞い踊」るのだと、「漂い生きるだけ」ではなく意志をもって「縦横無尽に羽ばたく」のだと。

でも単に未来への展望だけではなく、これまでの軌跡をにじませ、ゆらぎながらも言い聞かせるように描かれるところが、この楽曲の味わい深いところだし、そういうところに高野洸っぽさを感じるなどしている。

……これは、深読みすれば高野洸のキャリアとも重ねられなくもないだろうが、楽曲の主人公やその物語はそれはそれとしておこう。

とにもかくにも、過去に睨みをきかせ、現状に甘んじず、自らを奮い立たせて未来への決意を歌いあげるこの曲に、努めて強くあろうとする切なげな主人公を見たのだった。


"ex-Doll" のMVを見る


"zOne" の歌詞について「上への意識」みたいな話を書いたことがある。

それは "ex-Doll" にもつながっている印象がある。

"ex-Doll" の「飛ぶ鳥のように」「羽ばたく」という「飛ぶ」イメージ。

そしてMVの中の、上から漏れ差す光。

頭上のマネキン越しに光がやっと届く地下のような場所で、たくさんのマネキンの中に埋もれ、時おり画面がぼやけて姿がぼやけ、でもサビになればパァッと明るく照らされる様。

"ex-Doll" のMVで印象的なのは閉塞感だが、それは同時に、その頭上のマネキンの向こう側にある世界を想像させるものでもある。

あの上、つまり「羽ばたく」のその先にある世界は、たくさんの光に満ちていると予感させた。


5周年を迎えての高野洸のこれからの活躍がまた一段とたのしみになるのだった。

まあそんな深いこと考えずに、彼のパフォーマンスはやっぱりかっこいいよね、ってシンプルな話ができればそれで十分なのだけれど。

我ながら長いのよ話が。


カップリングの2曲

"Paradise" は、作詞が岡嶋かな多さんということもあってか、謎に親しみやすさがあった。

全くそんなことはないとは思うのだけど5年の軌跡をなぞるような……聴きながらなぜか "tiny lady" や "Another Brain" といった歴代の名曲が思い出されるなどしたのだ。

歌詞にそれらを想起させるワードが散りばめられていて、その「特盛感」が聴いていてなんだか楽しかった。
そんな関連はないのだろうけれど。


そして『チクタクタ』、なんてかわいらしい曲なのだろう。

トラックの質感の心地よさったら。

ご本人が書かれた歌詞もふくめて、まだ味わい中。

わたしのお気に入りは、終盤の「クタクタクタ」がビートに遅れて気だるげに歌われるところだ。


透明な語り手・高野洸


これまでわたしは、「高野洸の音楽が好き」と公言してきたのだが、最近その表現をすこし見直した。

高野洸個人というより、その周りのクリエイター陣をふくめて楽曲が好き、というほうがしっくりくる。

「チーム高野洸」が好きというか。

よくお名前をお見かけする岡嶋かな多さん、山本隼人さん、ダンサーさんや演奏をされる皆さん、スタイリストさんや映像監督さんなどなど、制作に関わる方々の技術や制作物を背負った高野洸が、歌やダンスや演出やパフォーマンスでもって「語る」楽曲が好きなのだと思う。

高野洸は、歌い手でもあり踊り手でもあり作り手でもあるけれど、結局のところ、広い意味での「語り手」として魅力的だなと個人的には思い至っている。

変な言い方になるけれど、わたしが高野洸の楽曲をたのしむ時、高野洸自身の存在は透明になる。

その向こう側にある、楽曲の見せてくれる風景・会わせてくれる主人公が、とにかく好きなのだ。

それはきっと、役者でもある彼だからこそなせる表現のありようだ。

……ってのは、こちらの記事↓を

拝読して最近やっと言語化できたことなので、ぜひシェアさせてほしい。


そういうことを考えてみた結果、ご本人だけへの熱量が高いわけではないわたしが「高野洸のファン」などと名乗るのはおこがましいと自覚し、最近は遠まきに目を細めてご活躍を追うなどしている。

前を向きつづける高野洸の背中を眺めながら、たまにこうして宛もなく言葉にしていけたらと思う。

そしてまたライブにうかがえる機会があればその時だけは、遠くの背中じゃなくて、正面から「まさにその瞬間の高野洸」を拝見できたらうれしい。


さいごに

とにもかくにも、ソロデビュー5周年おめでとうございます。

どうかどうか元気でいてください。

高野洸さんに幸あれ……!


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