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恋心だけが邪魔をする

3月9日、東京でAくんに会う。


Aくんに片思いをしてまもなく3年になる。

わたしの好きな人、Aくんはひとつ年下の男性だ。


Aくんにはすでに一度フラれている。

昨年2023年のバレンタインデーに、フラれている。

「うれしい、ありがとう。全然気づかなかった。今は、とっても話しやすい友だち。これで終わりにするかは任せるけれど、この関係がなくなるのはさびしい。ずるくてごめん。」

そんなニュアンスのお返事だった。

いやずるいの自覚して謝ってんの、ずーっるいって。

当然友だち付き合いを終わらせられるわけもなく、じゃあ、まあ、友だちで、という話で落ち着いてはいたけれど、やっぱり何も知らなかったあの頃にはもう戻れなくて。


そのすぐ後、Aくんが他に気になっている人がいるという話をしてくれて、わたしも少し冷静になろうと距離をとっていた。

結局、そのままわたしは諸事情あって東京を出て地元・山形に戻ったこともあり、まったく連絡をとらないまま、半年がすぎ2024年をむかえた。

物理的に距離もあいたし、時間をかければ忘れられると高をくくっていた。

わたしからは連絡しないように、アイコンを見て思い出してしまわないように、連絡先もえいやっと消していた。


でも全く、忘れられなかった。
上書きできなかった。

前の職場で知り合ったAくんは、たのもしい同僚であり、ほぼ同期だけどちょっとだけ後輩で、専門知識では先輩で、仲間であり、戦友であり、友だちであり、弟のようでもあり、兄のようでもあった。

その隣にいてくれるだけで安らぐナゾの居心地のよさは、人付き合い下手なわたしにとってキラキラした宝石のようだった。

正直、Aくんとの関係にはまだ名前をつけられない。友だち?知り合い?元同僚?

でも年齢・性別・性格・外見・生い立ち・肩書きどれも関係なしに、ただただ、その存在そのものがわたしにとって唯一無二で、圧倒的なのはたしかだ。


正直、フラれてからまわりの友人からは老若男女とわず「はやく次にいけ」と言われてきた。

でも自分でもどこがどうって説明ができないのだけれど、結局どうしようもなく好きなんである。

恋人になれたらうれしいけれど、恋人じゃなくて全然いい、気軽に連絡をとりあえる関係でいたい。


恋心さえなければ、まだ友だちでいられたのに。

何度そう思ったことか。

まだ消えそうにない恋心を憎み、近づきたいと願ってしまったことを悔い、いともカンタンに忘れられるだろうと思っていた浅はかさを恥じらい、それでいて見事に想いつづけているねちっこさに苦笑いした。

わたしにとってのその存在の大きさを思い知るに、彼からはなれた距離や時間が、逆に追い風となってしまっていた。


そんな折、年明け早々にAくんから連絡がきた。

新年の挨拶とともに、「またご飯いこう」と。

ここにも書いたけれど、秒であの熱が戻ってきた。

そしてきたる3月9日、9ヶ月ぶりにAくんに会う。


今回は、その日に向けて自分自身に決意表明をしておこうと、この記事を書いている。


今のわたしなりの結論は、
「ただただ大事にするしかない」
「もう愛するしかない」
である。

はい、降参、降参でーす!!!!!!!!

キライになどなれやしない、
忘れられるわけない、
結局、好きなのだ。

でもそれは、恋の文脈だけじゃない。

仕事仲間としても好きだし、だらだらとバカやってケラケラ笑い合える友だちとしても好きだし、どこか臆病で不器用だけどとても誠実で泥くさい人間としても好きだし。


Aくんとは、まっすぐな友だちでいたいのだ。

まっすぐ、ってなんだよとも思うけれど。

正直わたしにはまだ恋心があるから、彼が別の人を想う話をきくとちゃんと胸が苦しくなってしまう。

でも、他の誰かに恋をしているAくんもふくめて、大事にするしかない、キライになどなれやしない。

もう恋人になりたいなどと願わない、
恋の文脈で心を打ち明けたりしない、
そんなまなざしで彼のことを見たりしない。

少なくともそう努める。

ほんとうに今、恋心だけが、邪魔なんである。

まっすぐな友だちに、なりたい。


なんか……今これ書いてて思い至ったんだけど、わたし、こういうことしがちだな。

恋の意味じゃなくて、いろんな「好き」にフタをして、自分を消そうとする。

何かを好きだと思っている自分、キモいなって思う。


「推し活」もそう。

推しが大好きな自分自身に恥じらいがあって、今年に入ってSNSアカウントをすでに2つ消している(学習せえよ)。

たくさんの人がリーチできる場で、堂々と好きな気持ちを表明できない。

何ならすべきでないとすら思っている。

ファンの皆さんとまた推しさんの話をしてワイワイしたいよーと思って、そ〜っと手を伸ばしてみるのだけれど、自分の指先が水面にふれてほんの少し波紋が広がるだけで、あたかも98℃の熱湯に触れたかのようにビュッと手を引っ込め、背中をむけてうずくまる、指先はジンジンして、後悔する、ウソですなんでもないですと恥じらう。

SNSには書けないのに、noteになら推しさんのご活躍への感想を書けるのは、ここを見る人がほとんどいない安心感があるからだ。


「好き」を隠そうとするのは、実家の中でもそうだ。

というか、そもそも元凶はここにあるのではとすら思う。

好きなラジオ番組、好きなテレビ番組、好きな音楽を、家族とくに両親の前では聴けない、見られない。

「なんだこれ」と言われるからだ、鼻で笑われるからだ、勝手にチャンネルを変えられるからだ。 

否定され、無視され、干渉され曲げられそうになるからだ。

自分の「好き」は家族には見せられない。

小さい頃からそうだった。

あ、
まって、
この話は長くなるわ、
これについてはまたいつか言語化できたらと思う。


とにもかくにもだ。

Aくんへの恋心はちゃんとあると認めたうえで、それは大事に大事に抱えておくだけにしておこう。

友だちとして、くだらない話がしたい、バカやりたい、好きな音楽の話をして、肩を並べてうまいお酒が飲みたいのだ。

正直、心のなかではどうしたっていろいろ思う、考える。

でも、恋の意味での好きにだけはフタをして、ただただ大事にすることしか、わたしにはできない、しない、しないぞ。

彼が彼の好きな人と幸せであることを、彼自身のたくさんの幸せを、ただそれだけを切に願う。

わたしは、彼のまっすぐな友だちでいたい。


Aくんを大事にする(もちろん自分のことも)。

これは決意表明だ。


来る3月9日、やっとAくんに会える。

それが今ものすごくたのしみだ。

その影で、恋心だけが、邪魔をする。

心の中だけは自由なのだから、その恋心を否定はしない。

ただ、それはそれとして、抱えておくだけだ。

ひらくことはない、渡すこともない。

わたしは彼の、まっすぐな友だちでいたいのだ。


とはいえ、わたしの知るAくんは9ヶ月ほど前で止まっている。

今のAくんのことは何も知らない。

まずはじめに今の彼を知るところからだ。

出会い直し、やり直しだ。

今度はまちがわないぞ。

ひたむきに、彼とも自分とも向き合って、たのしい時間がすごせたらいいな。

……まあこんなドデカい気持ちで会われても、困るだろうけれど。

まあ、いずれにしてもとってもたのしみなんである。


こんなことを考えながら、最近はこの曲をよく聴いている。

涙がこぼれる。

その涙が、どういうものなのか、わたしにも分からない。

ただ涙がこぼれるたびに、このどうしようもない恋心だけが、邪魔だなと思う。

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