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果たして 誰だったのか

毎日毎日、4人5人とカウンセリングをしていた時代に、非常に多かったエピソードがある。

それは、以前居た職場で数人に責められたりいじめられたりして、それが原因で鬱病になったというエピソード。このパターンは、本当に数多く聴いた。

今でも、よく耳にする。もちろん、人それぞれだとは思うし、やはり人に責められたら、誰でも辛い。

ただ、詳しく聴いて行くと、そのエピソードの登場人物たちの怒り方が半端ない。どうして、そんなに怒っていたんだろう?と段々不思議に思って来る。

そんなに大勢に怒られたら、誰でも落ち込むし病気になるわ。

ただ一つ、しばしその話し手とお付き合いをさせていただくと、『え?』と思うことが多々ある。それは、その人ご自身が、結構酷いことを人に言ったりやったりしているなあ・・・と言うこと。

自称”傷つきやすい人”であるならば、そしてそれがトラウマだというのなら、他人も同じく傷つくということを想像出来るはずなのに・・・と絶句するような場面がある。

”傷つきやすい人”というセルフイメージを持っている人の中には、”傷つけやすい人”も多く居る。

ある人は、寂しさのあまり、早く親しくなろうと焦り過ぎて、突然失礼なことを言う。悪口を言ったり馬鹿にしたりするのが親しさの表れだと、どこかで勘違いしてしまったのか。本当に信頼し合っている者同士が、同じく、ずけずけモノを言うように。

親しくなる気使いのステップをすっ飛ばして表面だけを真似ようとするから失敗する。

一対一の時には普通なのに、第三者が入ると、急に『こいつはねー。』と語り出す人も居る。自分はこの人と親しくて、この人をよく知っているよアピールなのだろう。(そういう時は、大抵、大外れなイメージなんだけどね。)

幾人もの心理学者が類型論を唱えたように、人は自分や他人を分類して安心したがるところがある。血液型やら星座やらならまだ遊びの要素があって楽しいかも知れない。

でも、『自分は傷つきやすい人です』と言って向かって来る人がいると、私はとりあえずよける。『傷つけないでね。』と言う刃物を振り回しているし、それを交わしている間に自分が傷つけないとは限らないから。

鬱の症状が出たら、何が何でも休まなければならない。内服にも頼る必要がある。それは高血圧の人が血圧の薬を飲むのと同じように自然なこと。何せ、根性や頑張りでは克服できないことだから。

けれども、もしも回復したなら、いつかは考えなくてはならない。

『酷い人ばかりだったから鬱になりました。』と、ただそれだけで終わらせるなら、いつかは、また同じことを繰り返してしまうから。

私は、セラピストではあるものの、無期限で自分だけが癒されようとする人が好きじゃない。

癒しという言葉が少し前の時代から尊ばれてはいるものの、癒し癒しと言って、周りにばかり頑張らせようとする人とは、相容れない。

人それぞれだけど、もしもそんな理由で病んでしまったのだとしたら、それはどこかで修復して行かなければならない。

その唯一の方法は、他人ではなくて自分自身を見つめること。

ただし、このタイプの方々は、自分自身を見つめることと、自分を責めることを混同しているので難しい。だから、避けてしまわれるのだろう。

果たして、その時、何が起こっていたのか?

果たして、傷つけられたのは誰だったのか?

ちょっとしんどいけど、正しく見ることでしか前に進めないことがある。

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