見出し画像

不幸な言葉の使い方

ガン二バルというドラマを観ていた。

村には村民共通の秘密があって、その秘密の重たるものが大昔から続いている祭り。
何で未だにそんな祭りをしなければならないのか?とか、今も昔も続く人間の愚かさとか、大元のストーリーには『は?』と思うものの、俳優陣の演技が素晴らしいので、ついつい配信されている分は全部観てしまった。

特に面白いなーと思ったのは主人公の警官が、ある一面ではいっちゃっているところ。いくら正義でも暴力はダメだよ~と思いつつも、凄く気持ちが分かってしまうところが恐ろしい。それどころか、きちんと戦う場面がカタルシス。ダメだと分かってはいるんだけどね、心のどこかで「これくらいやらないとダメなんだよ。」とよろしくない自分が見え隠れ。
やらないのはそれが良くないことだと知っているからであり、そんな一面を持っている自分に気が付いているから。
そう思うと、自分を見つめない人の恐ろしさを感じる。
それは人食い村民よりずっと恐ろしいことなのだ。

ところで、狭い村のしきたりや度が過ぎた干渉が気になる。新しく引っ越して来た家族を監視し、さらには支配しようとする場面。

勝手に家の敷地内へ入って来て嫌がらせをする村民の侵入を防ぐため塀を立てようとするが、それさえ村の年寄りに説教される。

『面倒くさいな~。』と普通の感覚を口に漏らしたところ、それがきっかけになって村八分にされる主人公家族。

妻と娘のため、この村で生きて行くために謝罪する主人公に村民が言った言葉。

『よしよし、よく謝ったな。そうやって、一つ一つ乗り越えて行くんだよ。』

ドラマとしては何でもない1シーンで何の狙いもなかったのかも知れないのだけど、衝撃を受ける。

つい先日まで居た職場を辞めたいと申し出た時に言われた言葉だったからだ。「そんなこと言わないで乗り越えて行こうよ。」

あの時はその言葉に何でここまで違和感を感じるのかな?と思ったのだけど、これだ。

ドラマの中で理不尽なことをされているのに謝罪させられ『そうやって一つ一つ乗り越えて、村の人間になって行くんだよ。』と偉そうにしている村民たち。

乗り越えるという言葉をネガティブなことに使っていることへの違和感だったらしい。
『みんなと同じように感じて、みんなと一緒に行動しなきゃダメだよ。』とか。

自分の日頃の鬱憤を新しい人にぶつけて集団で服従させて行こうという、不幸せで窮屈な人々の人生における言語の使い方だったからだ。

それは乗り越えるとは言わないよ。奈落へ向かって落ちてる集団自殺のようなもの。

このドラマでは、たまたま人食い祭りというとんでもない常識と秘密を押し付けられる極端な話になっているけれど、何故になかなかの視聴率なのか?ということが伺い知れる。
世の中では結構よくある集団暴力を描いているからだ。

でも、先述したように主人公が屈しない人間・・・というより常軌を逸するほどに反抗的なので一方的ないじめにはなっていない。

それを思うと如何に現実の方が過酷なのか?ということでもある。

主人公の行動を推奨することは絶対ダメダメよ・・・なんだろうけど、多分私も同じことされたら戦う。という結論なので、それを成長というのなら、私ってほんとに成長ゼロ。ってことで、スッキリ。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?