薔薇の名前〈上〉〈下〉
"写字室の中は冷えきっていて、親指が痛む。この手記を残そうとはしているが、誰のためになるのかわからないし、何をめぐって書いているのかも、私にはもうわからない〈過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ〉。"1980年発表の本書はイタリアの記号論大家による映画化もされた世界的ベストセラーにして、7日間の重層的な擬似枠物語。
個人的には主宰する読書会の課題図書として、分厚さと情報量の多さから積読したままになっていた本書をようやく手にとりました。
さて、そんな本書は老僧アドソが【見習い修道士であったころの見聞を回想している】という形式を外枠に、イタリアのボッカチオ、10日物語『デカメロン』に代表される枠物語として内部には名うてのシャーロキアンでもあった著者によって、ネーミングから完全にホームズとワトソンを連想させられるバスカヴィルのウィリアム修道士と見習い修道士にして語り部役のアドソが修道院の連続殺人事件の謎を追いかける【7日間のミステリー小説】が収められているわけですが。
まず、とは言え"中世時代のミステリーでしょ?"と気軽な気持ちで読み始めて圧倒されてしまうのは、直接的な殺人事件の謎解きというよりは背景となる【ローマ・アヴィニョン軸の教皇とドイツ・神聖ローマ帝国による世俗的な権力を巡る争い】が作中の様々な立場を持つ登場人物たちの宗教、歴史、哲学など【膨大な情報量に溢れた会話としてあらわれている】部分で、正直に言うと上巻の時点で勉強不足な私は早くも挫折しそうになりました(下巻からスピードアップ?するので、何とか読み終えることはできましたが)
一方で、では難解な本か?と言われると(未鑑賞なのですが)映画ではウィリアムとアドソをそれぞれ、ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーターが演じた姿を頭に浮かべながら、宗教論争をすっ飛ばして【閉じられた舞台(僧院)での本格ミステリー】としても十分にエンタメ作として感情移入して楽しめるわけで。
個人的には、それぞれに細密画家や古典翻訳、薬草やガラス係といった担当を持ち、僧院自体が文化サロン的役割を担っている部分やBL的な所は京都在住の私は【天龍寺の五山文学界隈(伊藤若冲と大典和尚)みたいなイメージで日本イメージ化し】またウィリアム含め本を追い求める姿にはルネサンス黎明(れいめい)期のイタリアで写本を見つけ出し、それを正確に筆写するブックハンターの姿を描いた傑作【『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(スティーヴン・グリーンブラット著)を直接的に思い出して】勝手に補完しながら楽しませていただきました。
重層的なレイヤーが込められた作品なので、読み手の眺め方によって、また年齢によっても感じ方が変わる本なので。何度か読み直すことになりそうな一冊。ミステリー好きはもちろん、中世や宗教論争といった文化や歴史に興味ある方にもオススメです。
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