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子どもの精神的成長を阻害する親の愛というものがある【本:男の勘ちがい】

出張でホテル宿泊が続いていたとき、ふと気分転換がしたくなり、旅館にたどり着く。旅館といっても、ゲストハウスのような場所で、1階にコタツつきの共用畳部屋があって、そこにあった本棚に目が留まった。

「これらの本って、お客さんが置いて行ったものですか?それとも、店主が購入されたもの?」

そう店主に聞くと、「結構、お客さんが置いていくものが多いね、あと僕が買ったものもあるよ。本交換もできるから、もし何か本持ってたら、好きな本と交換して良いよー」

と、まるで私が次に聞こうとしていたことを先読みして言ってくれた。

「本当ですか!4冊持ってきて、泊まり込みで読んで全部読み終わりました。交換させてもらいます~!」

「お、すごいね。4冊も!笑」と驚かれながらも、店主(男性)が選ぶ『男の勘ちがい』とはどういう本なのか、という興味本位で選んだ本のうちの一冊。

結果。良い意味で、とても裏切られた。本『男の勘ちがい』

まず、そもそも、私の勘ちがいでもあるし、社会の前提みたいなものに、なぜか『男の勘ちがい』と聞くと、「女性から好意を持たれていると勘違いする男」とか、全く別の本『男の勘ちがい女の夢ちがい』のような恋愛関係、夫婦関係における不安解消本などのように思っていた。

そんな、小手先の話じゃなかった。鋭い洞察力。闇社会だった。でも、現実であり、日本社会の根底にある、取り上げられなければならない課題だった。いつも少年・少女犯罪が起きたとき、「世間(マスメディア)」は決まって、その事件の真相「なぜ」の部分にフォーカスするけれど、これは単発的な、個人の問題ではない。犯罪者の気質、親の教育、毒親、家庭環境、そして社会のありとあらゆるところにある「罪悪感」、全てが加担させている。自閉症や統合失調症など、誰もが何らかの傾向を持っていて、それがただ強いか弱いか、という違い。

作者は斎藤学氏。精神科医。家族機能研究所。
アルコール依存、児童虐待、過食症、拒食症、アダルト・チルドレンなどをテーマに、『家族の闇をさぐる~現代の親子関係関』『封印された叫び』『「家族」という名の孤独』という著書も出版されていた。

「本業が「人の話を聞く」ことであるため、聞くにつれて湧く感懐が溜まってしまって苦しく、それを「排泄」したくなる。以前書いていたのはなぜかというと、私が大事だと考えていることが世間の一大事になっていないことに腹をたてて、その役目でもないのに事情説明の文章を書いてきた。児童虐待の後遺症であったり、配偶者暴力についてであったり、少子化についてだったり、その背景にある日本の家族の仕組みであったり。しかしここ数年の間に、これらはいずれも「国民の一大事」になってしまった。(同時に、私は我が心身の保健のために書いていただけだったのだ)2004年記

斎藤学

この本の出版は2004年、今から19年前。そして、「少子化」真っただ中の日本。「罪悪感」という闇。

・未婚化社会
日本の適齢期男性の中には、結婚忌避の傾向がいつのまにやら育っているのである。東京の場合、既に30代男性の約半数が独身である。
未婚率の伸びが高いのは男性。

今の男たちにとってまず守らなければならないのは「自分」なのであって、これをより豊かに、幸せに考えるとき、妻や恋人は「適当な人ならいたほうがいい」程度のものである。

1986年『シングル・ライフー男と女の解剖学』
コンビニやシングル用家電製品や都心の独身者用集合住宅が、この潮流を下支えし、これらの普及と高品質化がまた男の未婚率を高めている。

未婚化要因は若い人々(20代~40代)の心の中にある。それは、彼らに共有されている自己愛的誇大感。これをプライドとも呼ぶし、偽の万能感と呼んでもいい。

この偉大さの幻想は現実に直面すると用意に剥がれるから、若い人々は他者との出会いに用心深い。特に男性のほうが偉大さの幻想をより一層必要としている。要するに今の時代、大した才覚も力もないことを半ば気づいている男たちにとって必要なのは、そこそこの収入とそれを支えるための学歴、それに自分を外界から切り離す小部屋である。

こういう男たちにとって生身の恋人は厄介である。

現在の日本社会は少子化に悩みぬくことになるが、これを招いたのは私たち男である。男が舵取りを独占してきた政治と自治体である。敗戦直後の1948年、「狭い国土に膨張する人口」という当時の現実に怯えた政府が、闇の墮堕胎手術を「優生保護法」によって合法化した。その結果、80年代の前半まで、既婚女性の4割近くが妊娠中絶の経験者であったし、現在でも2割以上がそうである。日本の社会は女性の心と体を犠牲にして少子化に成功し、これからはその対応に悩むのだ。

現在の戸籍制度は日本女性の敵
子どもと一緒にひとりの男の戸籍に入った女が籍から抜けること自体が日本ではひどく面倒なことになっている。特に自分の生んだ子を連れて戸籍を抜けようとすると、裁判沙汰は避けられないという制度のもとに日本の女たちは暮らしている。

フランス
フランスの戸籍は、まったく個人単位のもの。
出生届は出生地で、婚姻届けは婚姻の場所で発行し、ローンを組んだりするときには出生証書を使う。家族構成を記したものとしては結婚や出産をきっかけに居住地からもらう家族手帳があって、これが日本の戸籍に近い。しかしこれは希望者だけに交付されるものだから、持たない人も多い。それぞれに出生証明を持つ2人が結婚したとしても、片方がもう片方の家族に組み込まれるわけではないから、結婚しても姓は変わらない。ただし、通称として夫の姓とつなげたものを使っている人や、~夫人のような古風な呼称を好む女性もいる。要するに趣味の問題である。現代フランスにシングルマザーが多い(新生児の母親の40%を超える)のは出産のつど国からの手当が増えるからで、4人も産めば月に20万円程度になるから物価の安いフランスなら楽に暮らせるそうだ。シングルといってもパートナーがいないわけではなく、子を持つ非婚カップルなのである。この人々は社会的にも、法的権利の面でも夫婦とみなされ、希望すれば居住地の役所から「同棲証明書」が発行されるというのには、さすがに驚いた。

「健全家族神話」(家父長制的家族主義)が少子化を招く
日本の政府は母子世帯に向けて、児童扶養手当の所得制限や支給制限を強め、非婚シングルマザーには年間35万円の寡婦控除さえ受けさせない。日本の母子世帯の平均年収は215万円で、日本の平均世帯年収(721万円)の3分の1以下である。こんなところで非婚の母をやるのは危険すぎるから日本の婚外子出産は著しく少ない。

私たちは今、「夫婦とその血を分けた子」からなる核家族こそ健全という健全家族神話から解放されることを迫られているのだと思う。第一、そんな核家族世帯は全世帯の半分を占めるに過ぎない。ただ家族というとまず「健全家族」をイメージしてしまって、そこからはずれた自分を責めてしまう。特に、夫から虐待されながら家族を捨てられない妻たちや「不幸の溜息」を家中に充満させることで子どもたちから力を奪っている母たちは早くこのくだらない神話から離れたほうがいい。

ちなみに、「虐待」だけれど、amazonの読者レビューでとても良いコメントがあった。

児童虐待の英訳はabuse a child
abuseの意味は、誤用、悪用、乱用、酷使、罵る、自慰

要するに「自身の欲望の充足のために子供を乱用する自慰行為」は全て虐待ということになる。

人口減少による影響
不況の連続。現在の長期デフレそのものが人口増加率の低下によるという説もある(ポール・ウォーレス『人口ピラミッドがひっくり返るとき』)人口増加率がマイナスに転じれば、土地デフレは更に深刻なものになるだろう。それに伴って各企業の資産は減り、研究や事業への投資も減る。働く人個々の収入も減り、購買力は下がるから企業の収益も減るというデフレスパイラル。高齢化・高賃金化した労働力を嫌って、資本が日本から逃げる。かつて産業戦士と呼ばれた日本の労働者たちは衰退する企業の中でもかつての忠誠心を発揮できるのだろうか。いずれは国外産業が劣化した国内企業に代わって日本に活力を吹き込むだろう。

勘ちがいした「理想の父親像」
コミュニケーション不全

少年A
母親の「攻撃的な愛し方」「少年Aへの気質の矯正」「不在の父親」
夫婦の葛藤の中に投げ込まれていた
やさしい暴力こそ、児童虐待の本質ではないかと考えている
親の支配と子の隷従。病的な罪悪感の緩和剤。

『「少年A」この子を生んで・・・』
通読して感じるのは、わが子を理解できるのは自分だけという母親の妄信の恐ろしさ「母の侵入」。自分がAに憎まれていることを認めざるを得なくなってからも、母親はなおAの将来への侵入をたくらんでいる。

子どもの精神的成長を阻害する親の愛というものがある。
子どもを自分の期待で縛る。

「鹿にサンドウィッチを食べさせようとしてつけまわしても、鹿は逃げ回るだけである。座って自分の側の地面にサンドウィッチを置いたまま本を読んでいることだ。鹿はすぐに近づいてきてサンドウィッチをかじるだろう。愛するということも同じ。愛するがいい。が、少し後ろに退いて、愛するものがこちらに近づくようにするがいい。」

性的成熟の問題
男児は11歳~12歳になれば勃起も射精もしている。女児の12歳の大半は排卵を始めている。既に次の世代を作る能力を持った者たちを子どもと考えるからおかしなことになる。こんな性欲動の魂のような若い雄や雌たちを子ども扱いして、彼らが直面している衝動について何も説明しないから、ときどきおかしなことが起こる。それでも女の子の場合には、月経周期やそれへの対応について一応の教育が行われるが、男児になると野放しに近い。親友、友人に恵まれた子なら、猥談の中で性知性にありつき、不安を解消する。

日本人のロボット化
少子化の時代を迎えてからの日本の男性の多くは、母親の喜ぶ顔見たさに子ども時代を「勉強少年」として過ごしている。日本の官僚組織や大企業は、この手の「良い子」ばかり採用してきたので、日本は恐るべき「勉強少年国家」となってしまった。こうした人々は、試験の答案を書くのは得意だが、変化する現実を把握して対応することは苦手である。

こうした勉強少年を作り出す母たち自身も、「マザコン夫」や「暴力夫」に仕え続ける「良妻」たちも、大人とは何かがわからない人たちなのである。いかに自分が選んだ者とはいえ、配偶者から人としての尊厳を傷つけられてまで、一緒にいる必要は無い。同時に、自分が時間給いくらの人間であるのかを、普段から知っておかなければならない。そして少しでも賃金の高い労働者になれるように準備するようになる。自分が生きるための責任も果たさないで、主婦優遇の税制や年金制度に寄りかかろうとしても、将来は暗い。子育てがてらのパート勤務などとのんきなことを言っている女性が多いから、女性の賃金はいつまで経っても上がらない。保育園の整備も進まない。こうした女性に限って、「子どもの為に動きがとれない」という。愚痴の聞き役を務めているうちに、子どもは持たなくてもいい罪悪感にとらわれて、大人になってからうつ病者として過ごす人たちのなんと多いことか。

依存症の典型は「世話焼きママ」
子どもの心のままの大人

日本男性の学童化
小学校4、5年生「彼らは仲間のうちでは足を引っ張り合って競合するが、先生には極端に従順である。先生たちは子どもたちを保護しようとして、いくつもの規則を作り、子どもたちは喜んでそれを守るふりをし、仲間が規則違反をすると先生に言いつける。その一方では、仲間と慣れ合って規則違反をする。」こんな十歳児レベルの段階で、心の発達が止まっているのが、おおかたの日本の大人(特に男)なのではないか?

「世話焼きママ」を気取る国や役所が、くだらないさまざまな規則を張り巡らせる一方で、世話を焼かれたがる人々が、何かというと「業者」を規制しろ、監視しろと騒ぐ。何から何まで世話になろうと思うから、役人が増えてしょうがない。

自分が生んだ子に「悪魔」と名をつけたというので、役所が受理しなかったという「事件」があったが、そんなことの判断に何日も頭を使うような暇な役人を雇用しておくゆとりは、私たちにはない。名前の受理など機械化してしまえばいいのだ。

市民、民間人のほうも問題だ。規制に引っ掛からなければ何をやってもいいという心理は、まるで「ガキ」である。何をしてはいけないかを自ら判断し、誇りをもって行い、その結果に責任を持つ。これが大人であるとすれば、繰り返しになるが、おおかたの日本の男は大人ではない。

「母親は片時も子から離れたがらないもの」という「定説」に支配されすぎている。

期待の重荷を子どもに背負わせる親たちがいる一方では、子どもを自分の愚痴の聞き役に仕立てる親もいる。これもまた、現代の親たちの子どもへの依存を示す現象である。

「不幸な母」を持った娘は不幸である。
自分の幸せを第一に考えることができない人になってしまう
大人になっても、自分の人生の充実、生き甲斐のために「不幸な人」を必要とする人になるから、こういう女性は未熟で、身勝手で、周囲への愚痴をたれ流すマザコン男と結ばれやすい。

子どもは幼ければ幼いほど、世の中を自分中心に解釈する。周りの人、特に自分にとって最も大切な親が不幸であるとき、それを自分のせいだと思う。このように周囲を不幸にする自分は生きてはいけない、などと思い込んでしまい、理由のない自責感や罪悪感に悩む人になってしまう。

世間の人々は、この2つの分かれ道(犯罪と精神障害)に立っている道しるべが、実に曖昧なものであることに、気づいていない。罪を犯した少年の中には、処罰というより治療を必要としている者が多いことを忘れてはならない。

家系神話
家父長制的雰囲気という形で奉られた父親の「過剰な存在」

自己分化
マレー・ボーウェン氏
ワシントン市のジョージタウン大学に家族療法センターを設置
1974年に出版された著作集
「自己のdifferenciation(自己分化論)」という理論概念
家族的融合(未分化な家族自我)から、どの程度まで「私」という個人を分化させられるかというところが問題で、これが未発達(分化度が低い)であると各種の精神障害が発生しやすくなると考えた。この分化度が低い親からはいっそう低い子どもが育ちやすい。親だけを治療して分化度を高めることによって、子どもの問題行動を修正しようとした。

1.一方の極には家族成員の一体感が極度に高まっていて、心理的に融合し合っているという場合を想定する。「個性化の欠如」ないし「完全融合」である。この水準にある人は他人の感情に完全に巻き込まれていて、自分を独立した人間として捉えることができない。家族というシステム(独自の規制と交流パターンを持った人間集団)から離れて別のシステム(例えば職場)に移っても、心理的にはその中に溶け込み融合してしまう。
2.もう少し分化度が進むと、他人と融合する傾向は弱まるが、集団の論理や価値規範に影響されやすい。例えば学歴獲得のような目的志向的行動はできるのだが、他者の承認を得るためだけにそうしている。
3.さらに分化度が進むと「アイ・ポジション」(自分の考え方を持ち、それを使って他者とかかわる)を取れるようになり、他人の判断に頼ることが希になってくる。自分の判断で動ける分だけ、ストレスに支配されることも少なくなる。

ボーウェンが「健康な大人」に対して求めるのは第三段階までなのだが、彼自身は第四段階も想定。これは、個人化の最も発達した状態。この段階の人は当然、自分の行動のすべてを自分個人のものと感じ、その責任も自分で負える。その一方で、他人と親しくなることを怖れることなく楽しめる。他者の受容能力がある。高い段階の個人化を達成している人が求める他者というのも、同様に個人化の完成した人だろうから、こうしたカップルの誕生は難しいのかもしれない。ボーウェン自身、第四段階まで達する人は少ないと悲観的なことを言っている。

日本の社会や家族は、集団の秩序や調和を大切にしすぎていて、そうしたシステムを担う男たちにその傾向が強い。そういうと、「個人化などというのは古臭い西欧的価値観の蒸し返しだ」という人が必ずいる。だが日本では個人主義という言葉が誤用されてきただけで、それもまた集団主義があまりに強固だったからである。現にこれを書いている私にしても、日本社会の中では書けないという問題を幾つか抱えている。個人化が足りないのである。

個人化の完成した立派な人々なら以前からいたし、今もいる。
洋の東西を問わない。自己の意思をしっかり持ち、集団の期待や拘束に煩わされずに事を行い、その結果を淡々と荷い、しかも他人を心から愛する人。その境地を目指せるのではないか。

どうも私たち日本の男には成人としてのセクシュアリティが発達していない。女性タレントというのは、男性たちの性的関心の対象になるものなのだろうから、日本の男は未熟な異性しか相手にできないのかもしれない。少女売春を目的に東南アジアに旅する男たちが、日本ほど堂々としていられる例は、他の社会にはないのではないか。

日本の現代は、性的唆しが日常生活のあちこちに組み込まれていて、イライラさせられる。週刊誌のヌード写真や衛星テレビのアダルト番組、患者たちが持ち込んでくる刺青の話など

結婚は必要か
夫婦中心主義とは恋愛(気分)と結婚(制度)という異質なものを理不尽に一体化したアメリカ人たちの幻想に過ぎない

もともと家族は家の中の一方の性(多くは女性)を地域に送り出し、地域からその性のものを迎え入れることによって親族を形成するという機能を持つものだった。親族が網の目のように張り巡らされると地域になり、だから家族とは地域の中に根を生やしているはずのものだった。結婚の破綻は親族の絆を危うくし、それが重なれば地域社会の存続を危うくするので忌避されたのである。このことの否認の上に生じた夫婦中心主義の結婚は、結婚そのものが「タテマエ恋愛」の延長上の儚いものであるし、こうした結婚が当たり前になった結果として見えてきたのは、地域・地縁の崩壊・枯渇という問題。

互いに相手のことを思いやりながら、それを表現できない。しないでいるうちに相手は私を必要としていないのではないかという不信感が湧いて来る。それを黙っていて問題になるのは相手への怒りということもあるが、意外にも自責感、罪悪感も湧いて来ることが問題だ。「俺は彼女に向いていない」というところがそれである。罪悪感は持っていて何のたしにもならないというのが私の意見である。これがあると、それに見合った行為が生じてくる。「どうせ向いていないんだから、私の勝手にさせてもらおう」ということになろうと、そこにはもう緻密な努力というものが入り込む余地がなくなってくる。

結婚した男たちの多くは、妻たちが必要としているものを勘ちがいしていると思う。妻たちは夫に望まれ関心を持たれていると感じられるという極めてささやかな幸せを確認したいだけなのではないか。

シングル化社会
現代の親のもとに生まれ、たっぷりと教育投資された男女の結婚は大変だ。
それぞれが肥大した自己意識を抱え、それぞれの野心(したいこと)を持ちながらも相手にとっての「やさしい人」になろうと努め、それだからこそ傷ついている。そんなことなら、結婚などしないで、フランスの契約同棲制やアメリカのシビル・ユニオンみたいなものではだめなのかと思う。

結婚しないこと、子どもは生まないと決めた男の例
社交的で、パートナーにも納得してもらっている
今までも親とはまったくかかわりのない下宿人のような生活をしてきた
この男性との出会いは、彼の側のちょっとした欠点について、彼がなんとかしようとしたことに始まる。意外には、この人には自傷癖があり、自分の落ち度をとがめては自分の頬を空手で鍛えた挙で殴る。

この男女の話は、このようなヴァンパイヤー性があるから独身を貫けるというのも確かなことだ。男も女も自分の稼ぎで暮らし、男は今のパートナーを愛するどころか尊敬していて、彼女の言うことには従う。だから治療を求めて私のところにも来た。

今63歳の私の若い頃は、こんな男女関係は変だった。結婚を当たり前と思い、30歳直前で結婚したときは「親を喜ばせた」と奇妙なことを考えていた。「この女性を幸せにしよう」と思った。それ以上に、「世のため人のために貢献できるはず」と思って働きすぎた。勘ちがいの誇大妄想だった。

30年以上にわたっての我が家のドラマひとつひとつが、私に勘ちがいを教えてくれたので今では「人は所詮ひとりひとり」という心境になっている。

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