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あなたとわたしであるように。
何事にも初心というものがある。介護職についてもう9年近くなるけど、あの頃と今では想いの色や形は変わってしまっている。
入職前に通る資格講習の中で、介護士の卵たちは暖かく理想的な理念を叩き込まれるもので、僕も例に漏れなかった。
「どれだけ認知症がすすもうが、感情は残る」「何も言わず、表情が変わらなくても、その老人は感じている」
「どんな姿になろうが、彼らは人間だ」
この教育のもと、卵は現場に降り立つ。
そこには様々な老人がいる。
トイレをして1分とたたず尿意を叫び続ける人。昼食を食べおわったと同時に食べていないと怒る人。無言で便失禁したパットを外してしまう人。
この現実を目の前にして、それを受け入れ、優しく明るく振る舞わなければいけない。
そして、それが新人にはできる。あの理念が心に残っているからだ。
その美しい思いが、理不尽を飲み込むことを可能にする。でも、それは毒だ。僕たちは聖人ではない。そんなことを繰り返していれば、いずれ心は死んでしまう。
たまに流れる高齢者虐待のニュース。あれは、毒が完全にまわってしまったことで起こることもあるのだ。決して完全な悪者ばかりじゃない。
こんな風に、心を削るのが理想なのか?
幾度となく苛立ちを抑えこみ、優しくするのは自然だろうか?
最初は気づかない矛盾。
新鮮な理念が腐っていくなかで、見えてくるものがある。
高齢者の様々な理不尽のすべてを人間としながら、介護者には機械的な愛情を求めるこの異常が。
僕たちは。
施設の利用者と介護士は。
家庭の爺さん婆さんと家族は。
病院の患者と看護師は。
人間同士だ。
あなたが怒れば、僕も嫌だし。あなたが笑えば、僕も嬉しい。
それが自然なんだ。介護者は聖人じゃないし、ロボットでもない。
あまりに綺麗な想いは、相手を置き去りにする。
病気だから仕方ないと全てを切り捨てるのが人間扱いだと、僕は思わない。
子供が「子供だから」と言われるのを差別と感じるように、
認知症の人も「病気だから」と扱われるのが、どこか不愉快ではないのか。
相手を無視したことは、すべて差別になり得る。それが優しさであっても。
同居してるお婆ちゃんがいて。ニュースを見て世間話したり。嫌みを言ったり、言われたり。でかいオナラが出て笑いあったり。たまに本気で喧嘩したり。
そんな、自然な関わりを業界が認められればなと、今は思っている。
僕をサポートすると宝クジがあたります。あと運命の人に会えるし、さらに肌も綺麗になります。ここだけの話、ダイエット効果もあります。 100円で1キロ痩せます。あとは内緒です。