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インターネットとは排便である

ものを選び、口に運び、飲み込み、消化管へ送り消化・吸収し、肛門から排出する。

以前から、この流れはインターネットへの臨み方と似ていると思っていた。

消化・排便的行為

 出来事があり、それを了解し、理解し、反芻し、自らの体系の一部へと組み込み、そしてその出がらしをインターネットへと送る。

 現実に起きた出来事は食物であり、それを了解することで咀嚼し、それを理解することで体内へと送り込み、それを消化しグチャグチャにすることで自身の体系へと吸収する。そしてそれらが終わった後、何処かへとその残滓を排出する。

 食物の咀嚼・分解による他者性の喪失と、栄養としての吸収という他者を取り込むことによる他者との一体化。
 情報の了解による他者性の喪失と、それを自身の体系に組み込むという他者との一体化。

 そしてそれらを経て、掴み得ないもの、何ものでもない何かとなった姿が糞便である。そこには痕跡として、あるいは消化不良として食物がある。
 物事の本質は吸収されているのだから、それをどのように開陳しようとも、それが剥奪された姿として現れる。それこそが糞便ということだ(個人の経験を生のものとして如何に語り得るだろうか)。

 主体による了解等を経た情報の残りは、何処かへと排出される。そうでなければ、全ての情報が永遠に不可解な異物として主体の内にあり続けることになる。それは、自己を非常に不安定なものとする。同時に我々は糞便を見ることで、自身の健康状態を推し量る。他者へと放たれた糞便(コミュニケーション)をもって、我々は自身が如何なる存在であるかを知る。そして時に消化不良であったものが如何なるものであったかをみるのだ。

 そしてインターネットとはその手段である。一義的には、そこに溢れるものは全くもって、ある者から生まれし糞便であり、それを生み出す行為は排便である。現実で他者に開陳する行為と分かたれるのは、発信者の表情や語気、ニュアンス、間など微小の情報が削がれていることにある。主体にとって不可解なものであったそれは、情報が削がれることで、ますます不可解なものとなる。つまり一層糞便と化すということだ。

糞便という自覚

 重要であるのは糞便を如何なるものとして扱うかである。「インターネット」、特にツイッターやフェイスブックあるいは2ちゃんねるのような書き込みが行えるサイトでのそれを、まるで生の食材であるかのように扱ってはならない。

 また、排便を現実の目的としてもならないだろう。確かに排便は気持ちがよい。しかし、何かを摂取するのは排便するためではない。消化・吸収するためである。排便のための摂取は、倒錯的である。

 インターネットは糞の海で、そこに何か投げ入れることは排便である。だからこそ、インターネットが主役となってはいけない。糞便は興味深いが、それはオリジナルが想起されるからである。
嘘松や共感ポルノは全くもって、糞便が主体である。インターネットが主役となっては現実が壊れてしまう。現実を欠いた、糞便。それは、うんこを食ってうんこを出す、という最悪なサイクルだ。しかし現在、SNSでは、自身の好むコミュニティで観測される限りの事象を見て、その中でのみ完結するサイクル、言わばムカデ人間的サイクルが存在する。元は何だったのか分からないそれを取り込み、さらに不明なものとし、形を変えて再び自身に返ってくる。現実という新鮮な食材を取り込まなければ、栄養とはならない。それは、糞便の質自体を高めるものだ。栄養のなくなった糞便を永遠に取り込んで、一体何が満たされるだろうか。

 インターネットはクソだ。そのことを分かった上で遊ぼう。