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共感ポルノ・他罰性・反転可能性

https://twitter.com/you1026/status/1312549299322933248?s=20より)

満面の笑みになるようなツイートを見かけてしまった。

共感ポルノ、発信者にとって共感を集めることで承認欲求を満たし、見る者にとって共感することで代理的に愉悦を得させる、特に愉悦の強い一定の形態。

共感ポルノ

感動ポルノという言葉があるが、あれは障碍者を念頭に置いており、共感よりもそれを見たものへの感動を重視するものだ。共感ポルノとは、喜怒哀楽、それから派生する情念への共感を喚起するものであり(つまり感動に限らない)、また障碍者であるといった特定の属性を前提としない(ただしこれが起きやすい属性は存在するだろうが)。よくある嘘松ツイートや『スカッとジャパン』が最たるものだ。共感を得たいがために嘘をつき続ける。共感は快楽なのだ。

このツイートも共感ポルノの最たるものだろう。多くのフックがあり、共感を生みやすい。
まず、女性という非常に多くの存在者に当てはまる属性がある。次に、女性の辛さを示す。そして最後に、前述の2つと正反対の属性・様態を上げることで、差別化による直接的に共感するポイント(フック)のさらなる強化をし、また同時にヘイトを向ける対象の創出によるさらなるフックの増設をする。生理という身体的な差異を持ちいることで、女性をある種特権化しており、非常に共感を集めやすいと思う。(生理とは身体的な現象であり、トランスジェンダーにとっては男でありつつ、生理が起きることになる。そのため、女だから生理、という図式は普遍化は困難だが、本稿では元のツイートの区分に従いたい)

決して女性の生理が辛くない、負担ではないと述べるのではない。しかし、SNSにはこのようなポルノがあふれる。それは、誰もが発信しつつ、反応を見ることをができる、というSNSの性質による。共感を集めることがあれば、共感をすることがある。それが無限のネットワークを構築する。

他罰性ー僕・私は辛い、お前もこれを味わえー

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再び、優しさ溢れる素晴らしいツイートをお届けする。
なおこのツイートは削除されている。

生理の痛みを知るために、実際に生理の痛みを体験する必要があるのならば、目の見えない人の辛さを知るために、視力を失う必要があるのではないだろうか。これを繰り返せば、世界中のあらゆる痛みを抱えた個人が、他者をいたわることができる。話はそれからだ。

SNSで見られる共感ポルノには、他罰性の含まれることが多い。自身が辛いからといって、他者にそれを与える必要があるだろうか。原理的にはない。しかし、共感を集めるには、感情移入する対象はイノセントであることが望ましい。現実での報われない思いを、代理的に晴らすためには、自身に瑕疵があるようではいけない。それがあるようでは、現実の問題即ち、「どちらかが完全に善い/悪い」ではくくれない問題に引き戻されるからだ。つまり、ネットに求めるのは、リアルの補完なのだ。

だから嘘松にしても、勧善懲悪の形態がとられる。前述のツイートも「基本的にずっと元気」と、男性は完全に女性と異なる存在、他者として扱われる。

更なる問題として、基本的にSNSはリアルのオルタナティブとして扱われるが、それが逆転しSNSがリアルなものとなってしまうことがある。こうなると事態は深刻で、SNSで共感ポルノが示す限りのことのみを、あたかも本当に存在するのだと思い込むようになる。つまり、自身の瑕疵を意識せず、無限に他罰的になるのだ。

反転可能性の欠如

他罰性のある共感ポルノを単に楽しむだけならそれでよい。一切の害も不快も、他者には発生していない。しかし問題は、それを基に自ら共感ポルノを生み、攻撃的な言説を繰り広げてしまうことだ。

なぜそうなってしまうのか。それは、反転可能性が欠けているからと考える。つまり、AからBにやって許されない行為は、BからAにやっても許されないということを意識できていないのだ。

(厳密には、AとBは任意の値ではない。あらゆる属性を代入できるならば、普遍化可能となる。反転可能性は、あくまでAという存在者とBという存在者、その限りで具体性を持つ存在者同士の関係における規範を示すことである。注意しなければならないのは、1:A「Bはxべきだ」としたなら2:「AがBであっても『Bはxべきだ』」となるのであって、唐突にXをyにしてはならないし、2の段階で「BはXべきだ」の主語つまり、BをいきなりAに変えてもならない。例えば、「男はxべきだ」と女が主張したとき、「女もxべきだ」、とは反転可能性ではならない。これを検討するならば、普遍可能性だ。)

上記のことはともかく、攻撃的言説には、その発信者が攻撃対象であった時も、同様にするだろうか、ということは多い。これが反転可能性の欠如だ。

邪悪なSNS


( https://twitter.com/you1026/status/1313060229215469574 より)

https://twitter.com/faked_equality/status/1313040038360309761より)

この話にはオチがある。なんと同一の人物に過去の発言との矛盾が生じているのだ。単に矛盾することが問題なのではなく、このような人間が共感ポルノを生んでいるということが問題だ。言い方は悪いが、一貫した信念なく、心のフックに引っかかればそれでよい言わんばかりに。そしてそのような人種がSNSでは、「バズる」ツイートをしているのだ。

https://twitter.com/arato_san/status/1301771227812360193より)

極めつけはこれだ。全く冗談ではなく、共感はビジネスの対象とされているのだ。既に述べた通り、共感することとSNSの相性はよい。共感しつつ、されつつというネットワークが無限に繰り返され、常にスカッとジャパンされるのだ。しかし、止まらないネットワーク故に、ビジネスの対象として利用されやすい。もはやお笑いと言ってもよいだろう。

共感は大衆のアヘンである。

共感は我々の社会を形作る、根源的な能力だろう。共感されることに喜びを感じ、共感することで他社との絆を作る。いかに理屈をつけようと動機が情念であることはごまんとあり、その一つに共感も含まれるだろう。

しかし、共感から一歩止まることなしに、直接的に行動すれば、社会が壊れてしまう。共感のまま「悪者」に避難を浴びせることに、正当性があるだろうか。「あいつは悪い。僕・私が悪いと思ったから、ひどいことをしたと思ったから」、現代社会は法治国家だ。

共感は甘美なものだが、それを簡単に集めやすいSNSが存在する現代において非常に危険なものだ。ビジネスの道具として利用され、ありもしない事態に感化され差別的言動を振りまき、他者を無限の彼方に追いやる。繋がる感情(共感)は現代のSNSにおいて、分断を生むだけだ。

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以上、SNSに生息するインセルとミサンドリストについてであった。
基本的に共感はよいのだろが、このような方々には逆効果だろう。そして、SNSにはこういった人種が多い。