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弱音の非対称性 現代社会と男女3

リベラリズムと愛の残骸が語ろう。

「弱音を吐けない男性」

 つい先日話題になった記事がある。まずはこれを紹介しよう。

 自殺における男女差から、まず男性であることは自殺することに繋がりやすいとし、次に、自殺に関連するものとして、厚労省の調査を引いて、男性がストレスや困難にあった際に、他者に助けを求めることへの抵抗の強さを示す。そのような、社会において男は安易に弱音を吐けない存在であるのは、男性自身が幼い頃から「『弱さ』を連想させるような感情を表に出してはいけないと」学んできているから、そして同時に社会として「男らしさ」なるものが、暗にであれ期待されているからだとされる。そして、男性も、もっと弱音を吐くこと、そして周囲もそれを受け止めることを主張する。

 媒体の都合から、非常にあっさりとした論理展開と結論ではあるが、なるほど確かに素晴らしいことを言っている。しかし、社会が「男性らしさ」を求めることと「周囲が弱音を受け止めること」、この2つは、簡便に記述できるほど浅い問題ではない。

弱音ということ

 前述の2つは、非常に密接な関係にある。社会が男性らしさを求めるが故に、男性は周囲に弱音を吐けない。単刀直入に言えば、「男性の弱音を受けとめよう!」という主張は全く素晴らしい(皮肉ではなく)が、社会が男性らしさを求める限り、あるいは男性が男性である限りそれは、綺麗なかたちでは実現しない。

 では、女性は弱音や辛さの発露を認められ、男性が認められないのは何故だろうか。フェミニズムの論理では、それは男性が男性自身で作り上げた、マチズモによるものだとされる。しかし、本当に男性自身によるものだろうか。以前の投稿では、男性の男性らしさ(強さなど)が求められるのは、男性のみによるのではないとした。それは、結婚という観点からであったが、それだけではない。男女という点でみれば次のようなことがあるのではないだろうか。

 再び問えば、女性には、「理解のある彼くん」が現れる。女性の弱音はバッシングされない(「男性 弱音」とでも検索すると恐ろしいほどに、メディアの煽りと、率直なお気持ちが見られる)。男のメンヘラはキモイが、女のメンヘラは辛うじて許される。

 それは何故か。それは、女性の方が、男性より価値ある存在だからだ。弱音を聞く「義務」は存在しない。ならば、弱音を聞いてもらうだけのメリット、動機が必要となる。弱音を聞くことで得られるメリットを持つ存在。それは、弱くない存在だ。つまり、強い、価値のあるものの弱音が聞かれるのだ。それが、男性に対しては多く存在しない。それこそが、女性の方が価値のあるということだ。

 では、女性に価値のあるということは、どのようなことか。それは、性的資本があるということだ。女性は、最低限のことさえ整えれば、性的対象として魅力を持つが、男性は最低限では何もない。このことは、日常的感覚と相異ないかと思う。何でもない女性と何でもない男性、どちらを救いたいと直感的に思うだろうか。性は、単なる労働より貴重なのだ(土方も風俗嬢も身体を売っているがその給与には差がある)。

 元来、一部のオス(アルファ)が多くのメスを得ていたサピエンスにおいて、一部以外のオスは全く弱き、価値なきものだったのだ。メスはアルファという強い遺伝子を得ることができ、またそれ自体もアルファが選ぶという限りで、価値ある存在である(それが一夫一妻制で壊され、さらに啓蒙思想で男女が平準化されてきた。それはよいことだと思う。しかし、現在、自由市場においてその流れに逆行がみえる)

(男女という区分で物事を語ることに抵抗感を覚える方もいるだろうが、一般化すれば、弱音を聞き、場合によっては助けることで、メリットのある存在が弱音を吐ける存在ということだ。そのような存在は、性的資本の差という点で、非対称性があるということだ)

 男女の性的魅力の差という、ある種の生得的、アプリオリな差について、何故そのようになっているかは、非常に重要な問題ではあるが、ここでは省く。しかし、いずれこのことは書きたい。

 強者でない状況で、弱音を吐こうをものなら、情けないやつと社会的に低い評価を受ける。それは、男性が男性的役割のもと見られるからだ。自助・共助・公助という素敵な言葉があるが、自助可能なら問題は問題として表出せず、共助されるような存在は「助け」という概念を適応する必要はない、魅力ある強者的存在だ。恵まれないもののためにこそ、公助はある。公助の失われた現代において(リベラルという点でも、伝統主義的な助け合いという点でも)、自助の他救済はない(しかし自助は困難であるが)。それ故に、男性は少しでも救済されるべく、自己の価値を上げることを通して他者のインセンティブを増加させるべく、男性的役割に固執し、その強者たらんとする(ただし、そのような道を選ばない者もいる)。弱音を吐くために強くなるという、不思議な状況となる。

男性らしさ

 最近フェミニズムのような運動が活発になっているが、男性版フェミニズムは存在しない(インセル界隈ではなされているが)。フェミニズムとは、端的には女性の権利向上運動であるが、イートンやヌスバウムに代表されるように、表現物など、あるいは社会における、女性概念自体の見直しも含意する。

 既に書いた話題だが、では、男性概念の見直しはフェミニズムほどにされているのだろうか。前節において、相対的に男性が女性ほど弱音を吐けないのは、その魅力・資本によるところがあるとした。では、男性自体が積極的に弱音を吐けるようにする(男性概念の見直しをする)には、どうすればよいのだろうか。

 その方法として、以前の投稿では、女性にも男性性を担ってもらうことを挙げた(上昇婚志向を辞めないかと)。引用した記事では、積極的に弱音を吐こう、とあったが、現状それをすれば情けないやつ扱いで終わりだ。結局循環してしまう。

 フェミニズムが女性自身による変革のみならず、男性側にも観念の変化を求めるならば、男性概念の変化も、男性こうあるべしと望むのが男性だけでない以上、女性にも考えて頂くほかない。しかし、その試みは容易ではないし(男が女に弱音を吐くとき、女がその男を「キモい」と感じること自体は否定できない)、綺麗なかたちではなされないだろう。だから、次節のような結論となる。

終わりに 永遠の相

 以上のような論を述べると、人の心だとか、優しさだとか、愛だとかを信じられない哀れな人間だと誹りを受けるかもしれない。しかし、そのようなJ-POP、ROCK的な「愛」が、音楽が、物語が、好まれ、必要とされるほどには、それは現実にはないのだ。あり得ないこと、語りえないものを示す美しさ。それはあり得ないが故、美しい。

 本稿を読んで多少は共感してしまった哀れな弱者男性。あなたには、救ってくれる存在はいない。世界はそれほど優しくない、それは一生現れない。故に、非自発的に禁欲的にならざるを得ない。ただ生きよう。来世も前世もない、弱音の救済もない世界を生きよう。唯一可能な自己の救済は、自己自身によってのみ可能だ。そのために(それは叶わないが)、懸命に生きよう。無限の終わりに向かって。

 女性の皆さま、反省する必要はありません。全ては、「そのようなもの」なのです。今まで通り、辛ければ弱音を吐いていいのです。救われる者が多いに越したことはありません。今ある権利を放棄する必要はないのです。

 あるいは、男女問わず、究極的には、弱音というのはどうしようもないものだ。その救済を求めることは暴力的だ。救われない女性もいる。「男」「女」というのは、大まかにみた話で、例外が常に存在する。また、書いておかねばならないのは、「俺・私はつらいのだ!だからお前の辛さは問題ではない!」などということを考えてほしくない。男性の辛さ、と書きはしたし、非対称性もあるとは思うが、女性にもそれはある。だから、無暗に言っても意味はない。ただし、(フェミニストのうち狭量な者、それに類する者が)お前は辛くないと言われた場合、その時だけは、全生命を賭けて闘おう。

 人間は「そのようなもの」だ。それに期待するというのは、暴力的だ。このように書くと、馬鹿にされたような気分になる方もいるかもしれないが、決して馬鹿にはしていない。全てはそのようなものなのだ。リンゴが甘く、石が硬いようなものだ(実はこのような総合判断にこそ一縷の望みはあると思いたい)。はっきりと言えば、ある種の保守的態度ではある。だが、リベラルな改良が期待できるほど今の「リベラル」は、そして社会はよくできていない。だから仕方がないのだ。結局最初に引用した記事と何の差もない結論となってしまった。

全てを愛し、永遠の相の下で観よう。