”今まででいちばん努力したこと”が答えられなかった―がんばりすぎマン―
「サポステ行くようになって変わってきたよね」
と、今朝母から言われて嬉しかった。
どうしても、体力がついてこなくてnoteで書きたいことがそのときに書けず、色彩の勉強とともに毎日の継続ができなくなってきている。
やりたいことに体力が追い付かなくて必死だ。
あまり無理すると鬱病のほうに影響が出るので、根詰め過ぎず行こうと思っている。
おとといのサポステの、キャリアカウンセリングでのこと。
最近、カウンセラーSさんとの面談で、問いが書かれたプリントをもらって、その問いに答えを書きながら話したり、話しながらそれを書いたりする作業をしている。
問いは、例えば、
★あなたは、自分をどんな人間だと思いますか?
★今まででいちばん楽しかったことは?どうしてそう感じられたと思いますか?
★今まででいちばんしあわせだと感じたことは?どうしてそう感じたと思いますか?
など、自分の今までの人生を振り返るような内容。
答えていくうち、そしてSさんと話していくうちに、自分が本来どういう人間だったのかがわかってくる。
ただ、過去のことは、思い出すと具合が悪くなることがあるので、そのときは自分でストップをかけている。
おとといのカウンセリングで、
★今まででいちばん努力したと思うことは何ですか?
、、、、、、と、いう問いがきた。
、、、、、、、、、、、、、
受験?
保育していたころ?
今?
え?
、、、、、、、、、、いちばん?
いちばんって、何?
もうじき私の人生も34年になるところなのに、全く答えが見つからない。
私は、だらけた人生を送ってきたつもりは全くない。
今だって、社会には出られていないものの、勉強にnoteにサポステ通い、鬱病人間にしては結構がんばっているほうだ。
むしろ、物心ついたときから、あまりにも常時全力で生きているので、
”いちばん”
が決められない。
”努力をしない”という選択肢を持ったことが、人生で一度も、一秒もない。
、、、、、、むしろ、これは私オリジナルの病気なのかもしれない。
だって、生きることが不器用だから、がんばらないといつも、生きられない。
あまりにいつも必死なので、「がんばりすぎないでね」と言われることも多くて。
でも、
”がんばらない”ということができない。やり方が分からない。
”がんばらない努力”をしないといけない状態になる。
そして、それを努力してもできない。
結果がついてくることが多いわけでもないのに、努力ばかりしていた。
もちろん、これは何の自慢でもない。
無駄な努力もかなりしている。むしろそれが大半だろうか。
Sさんに、
「それは、お母さんに言われたりしてきたの?」
と聞かれたが、考えてみても、どうやら、そうではない。
きっと、これは性格とか、気質だ。
自分自身の、根っこにあるもの。
正しくても、そうでなくても、がんばっちゃう。
何かを、”がんばる”ことでしか、自分を救えないのかもな。
33年間の、毎日の努力の中からひとつをピックアップすることは、できなかった。
そういえば、以前のカウンセリングで、
★今までで最も”成功した”と思うことは何ですか?
という問いがきたとき、本当に困った。
成功を感じた出来事が、ひとつもない、思いだせない。
私、もしかして悲しい人生を送ってきたのか?
成功ってなんだろう?
ひとつひとつに対する”達成感”ならある。
でも、大きく何かを”成功”させた経験がなかった。
結果、社会人時代に母と二人旅したこと(※いまだに母がたのしかったと言ってくれるから)を書いたけれど。
この”成功”体験がなかなか答えられなかったのも、”努力”というものをいつもしすぎていたからなのかもしれない。
世の中には、”緊張と緩和” という言葉があるが、その”緩和”がうまくできない。
だから、こんな状況になるんだろうな、、、、、、
手抜きのひとのマネをしたらいいのか?と考えたこともあるけれど、とにかく、
”サボる”、”適当にやる”、”マナーを守らない”、
というような類のことが、一切できない。
根が、あまりに真面目過ぎる。
それでいて、真面目だから仕事など成績優秀なのか、というと、全くそんなことはなくて。
基本どんくさいし、不器用で、周りを気にしすぎ、意見を堂々と言えないし、考えすぎ、周りに助けを求めるのが苦手で、自分だけで抱え込み。
、、、、、、結果、潰れていちばん迷惑をかける。
あああ、何もいいことがない。
真面目とか、努力家とかいえば聞こえはいいけれど、そんな自分に対して、もっと堂々としていられたら、きっともっと報われるのに。
何か、成し遂げるだけの、心と身体の力が、いつも、いつの時代も足りないんだ。
どうしたら、抜けられるだろう。
Sさんが言う。
「ユーモアのあるひとだよね」
と。
きっと、もっと、自分に自信をもてて、人目とか評価を気にしなくてよくなったら、そういう、本来の、もっと子どもみたいにまっすぐで、笑ったり歌ったり天真爛漫な自分が、出せるようになるはず。
少なくとも、母が言うように、これから私は変わっていきそうだ。
サポステに通うようになって、自分の本来の姿、むしろ鬱病になるよりもっと前の、自分の姿がどんどん見えてくるし、話を聞いてもらえる、受け入れてもらえる、かつ病気だとか障害者かそうでないかとか、そういう目線では会話しないのに、居心地がいい。
自尊心は、少しずつ高めていけるのかな、と思う。
最近結構思うことだけれど、
自分のことはまだ信じられないけれど、自分の未来のことだけは信じてあげたい。
そのために、これからも通ってみる。
うまいこと、緩和もしながら。
最近、週2回のバス通いのスケジュールにしたことで、しっかり疲れがでてしまうので、否応なしに日課のどれかを”削る”ことが増えた。
”毎日やらなきゃ”の呪縛から、少し自分を解いてあげたことで、
”何もしない”
という時間も、そわそわが少しなくなってきた。
(いつも、”何かしなきゃ”の呪縛にあっていた)
自分の直感で決めた『サポステ』という選択は、いろいろ良い方向に向かいそうなので、あまりどっぷり甘えすぎないようにしながらも、これからも通い続けたい。
ありがとう、サポステ。
がんばることは無駄じゃなかった、と、未来の自分が証明できますように。