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2話.ヤンキーだらけのド田舎育ちのただバカな小学生が勉強を始めたら

こうやって、恥ずかしげもなく豪語している僕ではあるが、事前に僕について知ってほしいことがある。僕はどうやら“普通の人間ではない”らしいのだ。妻は初めて会った日に僕のことを「頭がおかしいと思った」と言っていた。そして、10年経った今も「この人は頭がおかしいから仕方ない」と妻は僕の行動に対して理解を示してくれている。というか、そう思うことでしか理解ができないのだと言う。

“普通”という言葉は、日常的に使われる言葉ではあるが、“普通”と“普通ではない”ことの明確な線引きというのはなかなかわからないものだ。人によって普通と捉える尺度が異なるからだ。

だが、うちの妻は僕が“普通の人間ではない”ということに関しては、自信を持って断言できるようだ。ここで言う“普通の人間ではない”というのは、決して犯罪を犯すような人のことを指すのではなく、常識的な見解で判断せず、独自の行動を取る人間のことをいう。つまり、犯罪を犯さない非常識な人間とも言える。そして、僕がそういう人間の部類に属するということを僕自身も最近になってようやく自覚し始めた。

でも、これだけは言っておきたい。僕は決して常識を知らないわけではなく、あくまでも常識に囚われたくないだけなのだ。この思いが強いのだと思う。

僕がこうなってしまった最初のきっかけは幼少期が大きく関係していると思う。

僕は小学校6年間、毎日片道4キロ、1時間半歩いて登下校していた。往復なので毎日8キロ、3時間歩いていたことになる。もちろん雨の日だって歩いた。毎日毎日それが苦しくて辛くて、嫌でたまらなかった。正直、小学校の思い出は登下校があまりにも辛かったせいなのか、ほとんど覚えていない。
当時は、校区というものがあり、エリアごとに行く小学校が決められていたのだ。なので、僕のようにエリアの端に家がある場合は学校までとんでもなく長い距離を歩いて登下校しなければいけなかったのだ。実は、僕の家から最も近い小学校は別にあったが、校区ではないため、通うことができなかった。

親が送り迎えをして、車で登校すればいいのではないかと思う人もいるだろう。車登校については明確に禁止と言われていた訳ではないが、どんなに遠くても子供を歩いて登校させるというのが暗黙のルールとしてあったように思う。ちなみに、30年経った今もなお、この暗黙のルールは続いているようで、僕が歩いた道を一人で帰っている小学生を見かけると、思わず「頑張れ」と心の中で言ってしまう。

僕はなんでこんな思いをしてまで、毎日学校に行かなければならないのだろうとずっと思っていた。もちろん、学校では友達もいたし楽しいこともあったが、毎日がとにかく疲れていた。

そんな日々を過ごす中で、僕は“普通の人間”でなくなったのかもしれない。

僕は小学校2年生まで読み書きができなかった。両親は朝から晩まで忙しく働いていて、勉強を教える時間なんてなかったし、僕自身も勉強の必要性を全く感じることなく生きていたので、小学校に入って周りの同級生が読み書きができていても特に気にすることはなかった。なので、マイペースにやったせいで読み書きができるまでに時間がかかってしまったのだ。小学1年生の1年間は授業中何をしていたのか、我ながら甚だ疑問である。だが、僕は毎日の長時間登下校のおかげなのか、いつも何かを考えながら歩いていた子供だったと思う。勉強はできなかったけど、思慮深い子供になったかもしれない。

僕は理不尽な状況に対して仕方ないと受け入れる素直な子供にはならなかった。この理不尽な状況をいかに効率良く、楽に乗り切れるかをいつも考えていた。だから、やってはいけないことであろうとわかっていても、それが効率的であれば、人を直接的に傷つけることでなければ、僕はやった。

例えば、僕は帰り道で「今日は歩いて帰りたくない」と思ったら、通りすがりの軽トラに向かって、親指を立てたりした。ヒッチハイクである。見ず知らずのおじさんではあるが、明らかにこのあたりで農家をやっている人の風貌に見えたので、全く怖くなかった。そして、無事に家まで送り届けてもらった。なぜか、小学生ながら自分には人を見る目には自信があったことを覚えている。

それは僕が自分の周りにいる人達のことをよく観察する子供だったからかもしれない。
人をイジメてばかりいた友達がいれば、その兄弟、親、家庭環境を観察して「だから、こうなったのか」と子供ながらに納得していた。だから、僕はイジメっ子とも、イジメられっ子とも遊ぶことができた。その中で、「環境が人を作る」ということを自然と学んでいったのだと思う。
僕は小学校6年生になった時、ある決断をした。地元の中学校は警察沙汰は日常茶飯事、いわゆるヤンキー校だった。
「このままいけば、僕は確実に不良グループの仲間入りだ。中学に入ったら逃げることはできないだろう」
僕はそう確信していた。というのも、僕の友達は小学生ながらヤンキーの卵みたいな子供ばかりで、当然のごとく兄姉がヤンキー、暴走族だったからだ。


僕は、誰に言われたわけでもなくある決断をした。

「受験をして、私立中学に入る」

僕は「環境が変わらないならば、自分で環境を変えなければならない」という結論に至ったのだと思う。

しかも、その私立中学は遠方にあるため、学生寮に入ることになる。つまり、地元の友達と顔を合わせることがなくなる。僕にとっては絶好の場所だった。

それを見越して、僕は受験を決めたのだ。
だが、僕は決して小学校の友達を嫌いになったわけではない。友達が嫌いなのではなく、環境が嫌だっただけなのだ。僕は小学6年生になるまで勉強はほとんどしていなかったので、成績ももちろん悪かった。でも、周りの友達もそうだったし、そこに何の劣等感も焦燥感もなかった。
僕は自分が環境に流されやすい人間だということに気づいていたのかもしれない。ヤンキー校に入っても、不良にならない学生もいる。でも、僕は不良になって、暴走族に入って、警察沙汰を起こして、少年院に入ることになる、そんな未来が見えていたのだ。そして、そんな未来は絶対に嫌だという思いがあった。

僕には全く違う未来があるのではないか。
漠然とながら、そう感じていた。

でも、そのためには自分を変える必要がある。僕は人生で初めて、勉強の必要性を感じ、6年生の夏頃から必死に勉強を始めた。これまで全くといっていいほど勉強していない僕であったが、「勉強しなければヤンキー、勉強しなければヤンキー」と自分を奮い立たせて頑張った。初めて勉強に本気になった姿を見て、母も毎晩一緒になって勉強を教えてくれた。

そして、見事、希望の私立中学に合格することができたのだ。

これが、僕の初めての人生の分岐点だ。


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