さくら

💭 感性綴り ⅰ. 自然と人間の共生 ⅱ. 人やモノの価値が正当に評価されるには? …

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💭 感性綴り ⅰ. 自然と人間の共生 ⅱ. 人やモノの価値が正当に評価されるには? 自分の価値観を実装した仕組みをつくりたい この世界は愚かだが美しい。

記事一覧

グローバルな仕事なんてこの世にない

今まで、国連で議論されていることやネット記事で見る各国に展開しているビジネスは、グローバルな仕事だとずっと思っていた。 でも、それは欧米を中心とした北半球の一部…

さくら
3日前
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日本人はなぜ先住民族と言われないのか。

こんにちは。オーストラリアで大学生してます。 オーストラリアに来てから、"indigenous people" (先住民族) について考えたり話したりする機会が多くなり、登録フォーム…

さくら
3週間前
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侵略の真の恐ろしさ

7月上旬、大学のフィールドワークで "Island Sustainable Development" を学ぶために、フィジーに2週間滞在した。 この旅で、私はコースのメインテーマであるサステナビリ…

さくら
2か月前
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「日本人」というアイデンティティを初めて感じた

私は生まれも育ちもオールジャパンで、かれこれ20年間以上日本で暮らしてきた。 しかし、10代頃から思考回路・生活規範・日常・行動などが合わないと感じてきて、私には「…

さくら
2か月前
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フィジー記🇫🇯観光業は優しい南国を幸せにするのか

大学のフィールドワークと個人ステイで、かれこれ25日間フィジーにいた。 フィジー最大の観光都市、ナンディ(Nadi)に始まり、ナンディで終わる。 でも、私はこの都市にい…

さくら
2か月前
1

初めてのSem1が終わった

オーストラリア国立大学(ANU)に編入して、初めてのセメスターが終わった。 人生で初めて、海外に住んで、海外の学校に通った。 忙しすぎた。そして、今までいかにぬるま…

さくら
3か月前
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最近感覚びんびんだぜ

オーストラリアに来て、たくさんの自然と優しい人に囲まれて、しがらみからも解放されて、最近全身に感覚という血が巡りまわってきた。 こんなに言葉が出てきて、頭が回る…

さくら
6か月前
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唯一の記憶

2年半前の私の目にほぼ毎日映っていた景色。 歩いてても座っていても立っていても、ずっと吐き気か頭痛がしていた。特に電車とバスの中は、その閉鎖的な空間と金属音も相…

さくら
6か月前

嬉し涙の裏側に滲む「幸せ」

つい一年半前までは 起きたくても起き上がれなくて、 頭も働かないから記憶力も集中力も続かない。 将来のことについて考えたり、自分について他人に伝えることも怖くてで…

さくら
1年前

日常から「当たり前」がなくなって

ある日を境に私の中で何かが崩れ去った。 人生観も変わった。 私の中にある黒くて苦しい思い出を供養したくて、ずっと下書きに入れていたnoteをconclude&publishすること…

さくら
1年前
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What kind of “culture shock” do you feel in Europe?

こんな質問を友人からされたので考えてみた。 2022年6月に、ユーラシア大陸(ヨーロッパ)へ初上陸してから、この一年で脅威の3回もヨーロッパを訪れた。その中で感じたカ…

さくら
1年前

哲学

哲学とは… これが私自身であり、 noteを通じて伝えたいことじゃないか と思い、書き記しました。 そういえば、ある人に 「目的」と「手段」という視点で物事を見れば、…

さくら
1年前
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規格外野菜の食育キットには、私の価値観が散りばめられてた話

「なんかやりたいことと違う」と思って 周囲への報告を中途半端にして辞めた規格外野菜の食育キット。 でもやっぱり、あの半年間で得たビジネス経験や様々な人との関係、 …

さくら
2年前
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私がnoteを書く理由✍️

こんにちは! 一般的なブログの推奨文字数は1000〜3000文字らしいですが、ほとんどの記事の文字数が5000字超のさくらです。 私にとってnoteは、一言で言うと  " 価値観…

さくら
2年前
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言葉と価値観

私の価値観は、今まで私と向き合ってくれた人との関わりの結晶だ。そんな私の価値観を形成している大切な言葉をここに記したい。 素敵な言葉に出会うたびに更新💫 イベン…

さくら
2年前
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Non-binary / それは「性別に囚われずに一人の人として私を見てほしい」という意思表示

最近、「女」という枠組みにカテゴライズされることに明らかに違和感を覚えるようになったので、この文章を書くことにしました。 "Non-binary" という言葉を初めて聞く人…

さくら
2年前
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グローバルな仕事なんてこの世にない

今まで、国連で議論されていることやネット記事で見る各国に展開しているビジネスは、グローバルな仕事だとずっと思っていた。 でも、それは欧米を中心とした北半球の一部における支配的な考え方に基づく、議論やビジネスでしかないと、今の私は思う。 幸運なことに、大学生になってから複数の国際会議に参加する機会や、様々な大人の方と関わる機会に恵まれた。 でも、その経験を通じて私のもやもやは膨れ上がった。 「ここにいる人たちと話していても、現場のリアルな声を感じられないのはなぜだろう?

日本人はなぜ先住民族と言われないのか。

こんにちは。オーストラリアで大学生してます。 オーストラリアに来てから、"indigenous people" (先住民族) について考えたり話したりする機会が多くなり、登録フォームなどで "Are you identified as indigenous people?" という質問を毎度のように聞かれるようになりました。 日本にいた頃は、日本の先住民族はアイヌや琉球の人々だと習う程度で、日々の会話で先住民族の話題が出たことや考える機会もありませんでした。 日本語で「

侵略の真の恐ろしさ

7月上旬、大学のフィールドワークで "Island Sustainable Development" を学ぶために、フィジーに2週間滞在した。 この旅で、私はコースのメインテーマであるサステナビリティ以上に、「社会」や「文化」について深く考えさせられ、学ぶ機会になった。 ホームシック私がフィジーで、目次に挙げた文化や侵略を考えるようになったのは、 フィジーに来て突如として襲われたホームシックに端を発する。 初めて海外での生活を始めたオーストラリアでは感じなかった感情をな

「日本人」というアイデンティティを初めて感じた

私は生まれも育ちもオールジャパンで、かれこれ20年間以上日本で暮らしてきた。 しかし、10代頃から思考回路・生活規範・日常・行動などが合わないと感じてきて、私には「日本人」の感覚が欠如しているとずっと思っていた。 しかし、フィジーでオーストラリアの歌とダンスを披露しないといけないことになったおかげ(せい?)で、私が「日本人」であることは変えられないアイデンティティなのだと自覚するとは思わなかった。 🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊 大学のフィールドワークで、7月の上旬にフィジーに

フィジー記🇫🇯観光業は優しい南国を幸せにするのか

大学のフィールドワークと個人ステイで、かれこれ25日間フィジーにいた。 フィジー最大の観光都市、ナンディ(Nadi)に始まり、ナンディで終わる。 でも、私はこの都市にいると悲しくなる。 それは、観光地に来た私と、そこで働いているフィジー人たちは、お金を介した関係でしかないのだと感じまくるからだ。 例えば、フィジー人はとてもフレンドリーで、街を歩いているとみんな "Bula" (フィジー語で "Hi") と笑顔で声をかけてくれる。 でもナンディでは、重いスーツケースを

初めてのSem1が終わった

オーストラリア国立大学(ANU)に編入して、初めてのセメスターが終わった。 人生で初めて、海外に住んで、海外の学校に通った。 忙しすぎた。そして、今までいかにぬるま湯で生きていたかを実感した。 でも、自然と優しい人々に囲まれた想像以上のストレスフリー生活で、来てよかったとも思った。 こっちに来ると決めたのは、1月1週目。 その1か月後に渡航して今に至る。 本当は、一学期遅らせて他の大学の合否を待ったうえで検討しようかとも思ったが、早く東京から出たくて、今学期から始めよう

最近感覚びんびんだぜ

オーストラリアに来て、たくさんの自然と優しい人に囲まれて、しがらみからも解放されて、最近全身に感覚という血が巡りまわってきた。 こんなに言葉が出てきて、頭が回るのは何年ぶりだろう。これはrecord しないとと、noteを書いてる。 毎週書けるかもこれ。 やりたいことが出てきて、ああこれはこういうふうにしたらできるかも。 あれとこれをやってみたい、じゃあ誰に聞こうか、何がわかったら実現できるんだろうか、どんなタイムスケールでやってく? こんな思考回路が巡るなんて、なんて

唯一の記憶

2年半前の私の目にほぼ毎日映っていた景色。 歩いてても座っていても立っていても、ずっと吐き気か頭痛がしていた。特に電車とバスの中は、その閉鎖的な空間と金属音も相まって症状悪化の温床だった。 だからずっとしゃがみ込んでいた。 電車の中や駅のホームでしゃがみ込んでいても、席を譲ったり声をかけたりしてくれた人は誰もいなかった。1人を除いて。 この頃は、頭が働いていなかったことに加えて、記憶を抹消したいという無意識の気持ちから、そもそも記憶がほぼ存在しないが、あるおじさんのこ

嬉し涙の裏側に滲む「幸せ」

つい一年半前までは 起きたくても起き上がれなくて、 頭も働かないから記憶力も集中力も続かない。 将来のことについて考えたり、自分について他人に伝えることも怖くてできなかった。 でも今は、私の「好き」と「やりたい」を認めてくれて応援してくれる人たちに囲まれて、のびのびと自分の気持ちに従って生活ができている。 徐々に起きられる日が増えて、自分についても話せるようになって、人に相談ができるようになって、論理的に思考を巡らせたり会話ができるようになった。 もう、SNSも怖くなくな

日常から「当たり前」がなくなって

ある日を境に私の中で何かが崩れ去った。 人生観も変わった。 私の中にある黒くて苦しい思い出を供養したくて、ずっと下書きに入れていたnoteをconclude&publishすることにした。 Collapsed週5日、学校や仕事に行くこと。 みんなと一緒に授業を聞いて、テストを受けること。 公共交通機関に乗ること。 将来について考えること。 好きなことをやること。 毎日起きて日常生活を送ること。 自分のことを伝えること。 これらの「当たり前」だと思っていた生活は、2年半前

What kind of “culture shock” do you feel in Europe?

こんな質問を友人からされたので考えてみた。 2022年6月に、ユーラシア大陸(ヨーロッパ)へ初上陸してから、この一年で脅威の3回もヨーロッパを訪れた。その中で感じたカルチャーショックはたくさんあるが、印象的だった3つを紹介する。 信号無視信号を守っている人の方が少数派。ただし、その分彼らは歩行者や車に注意を払っているので、左右を確認せずに横断歩道がない道をいきなり曲がってくる人がいる東京都心の道よりは安全な気もする⋯? 現に私も、信号無視を当たり前にするようになった笑 日本

哲学

哲学とは… これが私自身であり、 noteを通じて伝えたいことじゃないか と思い、書き記しました。 そういえば、ある人に 「目的」と「手段」という視点で物事を見れば、クリアに理解できることも多い と言われたのを機に、私の人生や進路選択の「目的」と「手段」とはなんぞや、という点に思考が巡りました。 それで、私が生きている/今までもこれからも歩む道の選択をするときの基準って という結論に至ったのですが、 「幸せ」という言葉が自分の中から出てきた瞬間に、3年前にTOEFL

規格外野菜の食育キットには、私の価値観が散りばめられてた話

「なんかやりたいことと違う」と思って 周囲への報告を中途半端にして辞めた規格外野菜の食育キット。 でもやっぱり、あの半年間で得たビジネス経験や様々な人との関係、 休校中なのに、SNSを見る暇もないくらい毎日が怒涛で夢中になってた私の中で疼くパッションは、今の私の価値観やこれから実現したい世界に通ずるものだって1年置いて振り返るとしみじみと感じるので書きたくなっちゃいました。 規格外野菜の食育キットってなに? なんで辞めたの? と思った方は、かなり葛藤してるこちらの not

私がnoteを書く理由✍️

こんにちは! 一般的なブログの推奨文字数は1000〜3000文字らしいですが、ほとんどの記事の文字数が5000字超のさくらです。 私にとってnoteは、一言で言うと  " 価値観の表現場所 " なぜ、毎回超長文かというと 価値観って私の今までの人生の様々な経験から形成されたものだから、簡潔には書き表せないの!許してね笑 あとは、短文だとその中に散りばめられてる伝わりやすい言葉やキラキラワードで私のイメージが作られて、実際の私に会う前に、noteを読んだ人が先入観を抱いて

言葉と価値観

私の価値観は、今まで私と向き合ってくれた人との関わりの結晶だ。そんな私の価値観を形成している大切な言葉をここに記したい。 素敵な言葉に出会うたびに更新💫 イベント等で、学生限定にしたり、対象年齢の上限を決める必要なんてないんじゃないかと思うきっかけに。 自分のやりたいことを、イベントのコンセプトやチームの意見に無意識のうちに寄せていってしまっていたということに気付けた瞬間。 言語化されたものや大勢の意見に寄せて、自分が本当にやりたいことに向き合えてなかったら、自分自身は

Non-binary / それは「性別に囚われずに一人の人として私を見てほしい」という意思表示

最近、「女」という枠組みにカテゴライズされることに明らかに違和感を覚えるようになったので、この文章を書くことにしました。 "Non-binary" という言葉を初めて聞く人も多いかと思うので説明しておくと、 のことを言います。 私の場合は後者で、男女どっちでもない…自分の性表現をどうしたらいいの?と感じるよりは、 「男」「女」というフィルターじゃなくて 私自身を、人間性や価値観といった観点から純粋に一人の人として見てほしいという気持ちがあるからです。 だから、「私」と