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グローバルな仕事なんてこの世にない

今まで、国連で議論されていることやネット記事で見る各国に展開しているビジネスは、グローバルな仕事だとずっと思っていた。

でも、それは欧米を中心とした北半球の一部における支配的な考え方に基づく、議論やビジネスでしかないと、今の私は思う。


幸運なことに、大学生になってから複数の国際会議に参加する機会や、様々な大人の方と関わる機会に恵まれた。

でも、その経験を通じて私のもやもやは膨れ上がった。

「ここにいる人たちと話していても、現場のリアルな声を感じられないのはなぜだろう?」
「冷房ガンガンの部屋で、エンジニアでもないのになぜ全員高価なMac PCを使っているのだろう?」
「なぜ、論理的な説明や比較をすることなく、自信満々と、ヨーロッパの取組が進んでいるのでそこで学ぶべきだと進めてくるのだろう?」

グローバルスタンダードと呼ばれるものを議論する場やそれに関わっている人達と話すことは、私にとって違和感にたくさん触れられる機会だった。


私が海外大学に編入するとき、日本人にとって主流な欧米圏ではなくてオーストラリアを選んだのは、「北半球から距離をおきたい」と思ったことも一因だ。


オーストラリアに来て、私が今まで触れたことのない価値観をたくさん知った。
それは、日本という北半球の先進国でずっと育ってきた私にとって、すんなりと理解しがたいものも多い。

この国では、私が今まで触れてきた(北半球の?)スタンダードな考え方や商習慣は通用しないだろうなと思う。


具体例を挙げながら、言語化して説明するのは難しいのだけれど、簡単に言うと、自国だけでも生活が成り立ってしまうということに起因するのかなと思う。それを可能にする地理的・文化的底力がこの地域にはある。

特に、ヨーロッパ寄りの先進国であるオーストラリアを出て太平洋に行くと、欧米から貨幣経済や大量生産大量消費の商材がもたらされなかったら、世界で最も自立している地域なのではないかと感じる。


だから、私が関心のあった気候変動もITも、欧米が選考して取り組んでいるのではなくて、
自分達の行いをcompensateすることを目標に作られた新たなビジネス機会であり、資源や商材が欲しい国がそれらを手に入れるお金を作るために行っているゲームの一種だと感じる。

(何か上手く説明できなかった気がする)


私が救われた社会学の授業で習った概念で、社会には様々な「場」がたくさんあり、それぞれの「場」において支配的な考え方(常識)が存在するという考え方がある。

例えば、東京という「場」では、マンションに暮らし毎朝起きたら、満員電車に乗って通学・通勤をして、学校・会社で1日の大半を過ごして、マンションに帰ってくるというのが支配的な考え方ですが、
鳥取という「場」では、一軒家に住み、毎朝起きたら自転車や鈍行電車で通学・通勤をして、帰ってきたら夏だったら近くの土手で遊んだり商店街で買い物をしたり、冬だったら雪かきをしたりすることが支配的な考え方になる。
ということです。


では、私はどんな「場」で、この先数年を生きていきたいのだろうかと考えてみると、
私が北半球にある先進国の都心で育ててきた価値観は私の奥底に根付いていて、欧米の方が自分は認められやすく、ストレスだけれどもその中で議論して行くことが刺激的なのかなと思う。

私はこれから、国境関係なく science × nature × data なことに関わっていきたいと思っているので、俗に言うグローバルな仕事に携わっていくのかもしれないが、
自分の関わっていることは、あくまで私がいる「場」で集約された概念や取り組みでしかなく、この世に真のグローバルスタンダードなんて存在しないし、作ることもできないということは、肝に銘じてこの先の人生を楽しんでいきたい。


一つの価値観で形容できない世界の方が
ずっとおもしろい!


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