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「初めての取材がアイルトン・セナ」 伯国邦字紙四方山話 第3回 松本浩治 月刊ピンドラーマ2024年7月号

ブラジルで邦字紙記者活動を30年も続けさせてもらっているが、やはり印象に残っているのは、この仕事を始めた1994年当時のことだ。同年はそれまでのハイパー・インフレ対策としてレアル貨幣プランを導入・定着させたフェルナンド・エンリケ・カルドーゾ氏が10月の大統領選挙で当選。6月から7月にかけて米国で開催されたサッカー・ワールドカップでセレソン(ブラジル代表)が4回目の優勝を果たした。そして、その前の5月にはブラジルの英雄で「音速の貴公子」の異名を取ったF1レーサーのアイルトン・セナがイタリアのイモラ・サーキット場で事故死し、同氏の出身地であるサンパウロ市のモルンビー墓地で国を挙げての葬儀が執り行われるなど、「激動の年」でもあった。

その中でも記者にとって最も印象深かったのは、初めての取材がアイルトン・セナだったことだ。まだ新聞の仕事自体が何なのかもわからなかった状態の94年1月下旬、セナをアニメ化したマスコットである「セニーニャ(SENNINHA)」の記者会見がサンパウロ市内のホテルで開かれ、『日伯毎日新聞』のポルトガル語版のカメラマン(日系人)に同行して現場を取材することになった。

会見は当然ポルトガル語のみで、こちらは片言しか理解できない上、記事を書くのもこの時が初めての経験。取材と言っても正直、何をどのようにしていいのかがまったくわからない。取材現場はブラジルの有名テレビ局や大手新聞社などメディア関係者が溢れかえっており、その熱気に圧倒される。とにかく、こちらも負けじと日本から持ってきたカメラ機材を駆使して、新聞用のモノクロフィルムと日本の雑誌社に送るかもしれないリバーサル・フィルム(当時は今のようなデジカメは当然まだない時代)を持参して写真を撮りまくった。

「セニーニャ」の記者会見を行うアイルトン・セナ(1994年1月)

結局、言葉と能力の問題もあって、現場では記者としての取材はほとんどできず、大体の内容を同行したカメラマンに後で聞いて、60行(660字)ほどの原稿にして書いた。しかし、今から見直しても「お粗末」の一言に尽きる記事内容だった。それでも、テレビでしか見たことのない本物のアイルトン・セナを真近で見ることができ、F1レースそのものにはあまり興味はないものの、セナの魅力を肌で感じることができた。記者という仕事は「肩書きさえあれば、どこにでも行ける」(当然、特別許可証がなければ入れない取材場所もたくさんあるのだが)ことを実感した最初の取材だった。

(つづく)


松本浩治(まつもとこうじ)
在伯25年。
HP「マツモトコージ写真館」

月刊ピンドラーマ2024年7月号表紙

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