石射猪太郎(いしい いたろう、外交官、元上海総領事、元ブラジル大使、1887-1954) ブラジル版百人一語 岸和田仁 月刊ピンドラーマ2024年12月号
2001年に発表された「戦前・戦間期における日本外務高官の昇進に関する統計的特徴」という論文がある。著者は市橋勝(広島大教授)で、これは、科学研究費助成金が交付された「戦前期日本外務省の組織・人事・文書に関する基礎的研究」の一環として書かれた論考だ。
この研究の対象となった戦前の外交官の数は631名、学歴でみると、東京帝大・京都帝大出身が61.5%だ。彼らエリートが外務省の課長に昇進するまでの平均年数は、東大京大卒では12.3年、非東大卒は13.3年、大使に昇進するまでの年数については、東大京大卒は23.4年、非東大卒は25.3年、であったと。また、同じ大使といっても、欧米・中東の大使になるのは、東大京大卒ばかりで、欧米に比べ危険度の高い中南米・アジアの大使になるのは東大京大以外の卒業者、というのが、この統計学を援用した研究の結果明らかになったことだ。
同じ外交官でも東大京大卒のほうが、早く出世(大使になるのは2年早い)することが、この”科学研究費助成”大論文(!)で再確認された、というわけだが、東大京大卒ではない外交官の代表例といえるのが、上海総領事や東亜局長を経て、戦前最後の駐ブラジル大使となった石射猪太郎であるので、今回は彼を取り上げてみたい。
衆議院議員石射文五郎の長男として1887年、福島県で生まれた石射猪太郎は、1908年東亜同文書院を卒業、満鉄(南満州鉄道)に勤務してから実業界へ乗り出すが挫折、得意の語学(彼は中国語と英語のエクスパート)をいかすべく1915年外交官及領事官試験に合格し、外交官へ。最初の外地体験は1920年から二年半、駐米大使館の三等書記官としてであった。その後、満州事変時の吉林総領事、上海事変直後の上海総領事、日中戦争勃発時の外務省東亜局長、と泥沼状態に入り込んだ対中国外交の最前線で苦労し、軍部独走に一定の抵抗を試み、和平の道を模索した外務省幹部の一人であった。
もう敗戦が誰の目にもはっきりしてきた1944年8月、当時の重光外相から打診され、悩んだ末ビルマ大使に着任、その1年後にはラングーンから敗走という辛酸をなめたが、外務省に辞表を提出したのは1946年7月であった。
石射が自身の回顧録『外交官の一生』(中公文庫版は1986年刊)を書き上げたのは、公職追放解除を訴願したためであったと、彼の子息が歴史研究者に打ち明けているが、この回顧録(中公文庫)に解説を寄せた加藤陽子(東大教授)は、「日中武力衝突の初期段階における封止に失敗した日本側の歴史、それを石射の悔悟とともに何度もひもとくことが、本来の正統的な霞ヶ関外交を思い出すための手立てとなろう」と評した。
そんな中国通の石射が、戦前最後のブラジル大使に任命され、任地リオデジャネイロに到着(空路でなく航路で)したのは、1940年11月であった。そのわずか1年1か月後の1941年12月7日夕刻(現地時間)、真珠湾攻撃、その翌月の1942年1月28日、ブラジル外務省から国交断絶の通告、3月7日から大使官邸内で監禁され、7月3日、国外追放される。乗船した交換船は8月19日横浜着。と、大使としてブラジルに駐在した期間は1年2か月に過ぎず、サンパウロ訪問もブラジル外務省から”自粛要請”されたため行けずに帰国を余儀なくされた大使であった。
冒頭に引用したのは、彼の『外交官の一生』の第15章からである。
日本移民の多くが活躍していたサンパウロ州もアマゾンのパラー州も、さらにはリオのカーニバルも実地体験していないが、マクロの情報はつかんでいたことは読み取れる。
中国関連の緊迫した情勢を冷静に記述しているところと比較するとブラジルの章はなんともゆったりとした感じの文体で書かれている。
月刊ピンドラーマ2024年12月号表紙
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