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現役の洗染業者の和田佐代子(わだ・さよこ)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2022年12月号


和田佐代子さん

「とにかく忙しくて、子供をかまっている暇がなく、立ってご飯を食べていたこともありました」―。今も夫婦で現役の洗染(クリーニング)業を営む和田佐代子さん(71、長崎県出身、旧姓・中村)は、夫が独立してクリーニング店をサンパウロ市内に出店した1970年代当時のことを、そう振り返る。

重労働だが資本金が少なくても「腕」があれば商売になったことで、ブラジルでは戦前から洗染業に従事する日本人は数多かったと言われる。全盛時代は「パウリスタ洗染業者協会」など複数の団体がひしめき合い、日系議員の票を取りまとめて当選させるなど、協会としてかなりの力を持っていたことも伝え聞く。しかし、時代も変わり、現在は洗染業で生計を立てている日本人はごくわずかとなっている。

長崎県諫早市で生まれ、2歳で長崎市に転住していた佐代子さんは1962年2月2日、両親と、構成家族を組んだ姉夫妻、姉、妹とともに神戸港を出航してブラジルへ。「さんとす丸」の船内で11歳の誕生日を迎えた。優しくしてもらっていた日本人の船員から、「赤道には赤い線が引いてあるから」との冗談を真に受け、「ずっと海を見ていた」思い出がある。

その頃、佐代子さんが通っていた長崎市の小学校のクラスには家族でブラジルに行く人も複数おり、「冷蔵庫もなく、近所にテレビが3台ほどしかない」(佐代子さん)時代だった。

シベリアに抑留された経験を持つ父親の勇(いさむ)さんは背広や洋服の仕立て屋の仕事をしていたが、生活に余裕はなく、家族でブラジルに行くことを決めた。

中村家が入植したのは、パラナ州ローランジア市の江頭(えがしら)という佐賀県出身の日本人がパトロンだったコーヒー農園。歩合制で5年の契約を結んでおり、家族は慣れない農業生活を強いられた。佐代子さんも地元の小学校に通う傍ら、畑仕事を手伝った。学校に通う中で自然とポルトガル語も覚え、「1年もすればポルトガル語を書けるほどだった」という。

67年、知人のつてにより家族でサンパウロ市へと出た中村家は、勇さんが日本で行っていた仕立て屋の腕を生かしてユダヤ系の縫製工場から婦人服の注文を取ることに。家族でミシンを使って仕事をこなした。一方、佐代子さんと妹はノーボ・ムンド区の借家の近くにあった日本人のスーパーマーケットで働くことになったが、あまりに仕事量が多いため、2年ほどで辞めた。その後、同船者で後の夫となる和田繁治(しげはる)さん(73、熊本県出身)が佐代子さんの元に家族で遊びに来た際、「何もしていないなら、手伝いに来てくれ」と繁治さんが働いていたクリーニング店で働くことになった。

しかし、繁治さんが自分の店を出すために独立したことを契機に佐代子さんはクリーニング店を半年ほどで辞め、その後、繁治さんとの交際を経て、20代半ばで結婚。すでにモエマ区でクリーニング店を開けていた夫とともに洗染業を本格的に行うことになった。しかし、冒頭の佐代子さんの言葉にもあるように、当時の洗染業者は競争も激しく、多忙を極めた。「家の中に、注文を受けたお客さんの服をそこらじゅうに置けるだけ置いて、ご飯は立って食べていましたね。配達もしていた時代で、子供の面倒を見るどころでありませんでした」と佐代子さん。「今でもアイロン(の重量)は2.5kgぐらいあるのですが、昔のは大きくて5㎏もあったので、(アイロンを使う)右腕だけが太くなりました」と苦笑する。和田夫妻の洗染業者としての信用度は高く、今も日曜日以外は休みがなく、仕事が途切れることはないという。一方で、現在は仕事の合間に夫婦してカラオケを楽しむ生活も続けている。

そのため、夫の繁治さんは渡伯後まだ一回も日本に戻ったことがなく、佐代子さんも15年ほど前に初めて一時帰国した。故郷の長崎は当時と随分変わっており、小学校に通った大きな道も小さく感じたそうだ。そうした中で、ここ数年のコロナ禍で延期になっていた夫婦揃っての訪日を来年の日本の春ごろに予定しており、故郷でゆっくりできることを楽しみにしている。

ブラジルでの生活について佐代子さんは「もっと勉強したかったと思うこともあり、その意味では人生をやり直せればと考えることもありますが、まあ、今となってはブラジルに来て良かったですね」と明るい笑顔を見せていた。


松本浩治(まつもとこうじ)
在伯25年。
HP「マツモトコージ写真館」

月刊ピンドラーマ2022年12月号
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