バルゼア・アレグレ移住地に住んだ酒本恵三(さかもと・けいぞう)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2022年10月号
南マット・グロッソ州の州都カンポ・グランデ市から西に約50キロ離れた場所にあり、1959年5月に入植が始まったバルゼア・アレグレ移住地。旧海外移住振興会社(JAMIC、現JICA国際協力機構)が造成し、山口県出身者が多いことから「山口村」と称された。現在は養鶏で栄えている移住地として、その名を誇る。そして、あの有名なルバング島から帰国した小野田寛郎(ひろお)少尉(故人)の牧場があることでも知られている。家族に連れられ同移住地に12歳で入植し、60年9月から62年3月までの約1年半を過ごした経験を持つ酒本恵三(74、大阪府出身)さんは、父親の姿を通して当時、酒本家がブラジルに渡った経緯を話してくれた。
父親の正男(まさお)さん(2005年、89歳で他界)の実家は石川県金沢市で畳屋を経営していたが、長男が家督を継ぐことが決まっていたため、次男の正男さんは小学校を卒業してすぐに大阪の呉服屋に丁稚奉公に出された。その頃、和歌山県の農家出身のふゆ子さん(2013年に93歳で他界)と所帯を持ったが、第2次世界大戦が始まると徴兵されるのを嫌がって山口県光市に転住。同地で軍人相手の食堂で働いた。戦後、再び大阪へと戻り、繊維専門の商事会社に入った正男さんは社交性があったこともあり、繊維製品を売りまくった。当時、大卒の月給が1万円だった時代、正男さんは歩合制で毎月平均10万円を稼ぐほど儲けていたという。また、仕事の合間に手を出していた株の売買でもいい小遣い稼ぎになったようだ。
戦前に満州に行きたいとの夢を持っていた正男さんは、海外に出る思いを実現させるべく、大阪海外協会(現JICA関西)に足を運んだ。その際の南米への移住先はブラジル、パラグアイ、ボリビアの3か国。ブラジルではバルゼア・アレグレ、ジャカレイ、グァタパラの3移住地から候補地を選択することができた。バルゼア・アレグレは当初の募集で、約3万6000ヘクタールの土地に入居者は各25ヘクタールの土地が提供されるとし、地理的にもカンポ・グランデ市から近いこともあり、他の移住地に比べて条件が悪くはなかったようだ。JAMICの当初の計画ではバルゼア・アレグレには1000家族が入植する予定だったが、後述する干ばつ被害等で評判が悪くなり、実際に入植したのは30数家族でしかなかった。
正男さんは当時65万円だったバルゼア・アレグレの土地代を現金で払い、ふゆ子夫人と三男の恵三さんを含む子供5人を連れてブラジルへ。60年7月に神戸港から「あるぜんちな丸」で海を渡った。恵三さんはブラジル行きの当時の心境について、「旅行できるし、面白そうだと思った」と回想。船内ではポルトガル語の指導を受けたり、赤道祭を行うなど楽しかった思い出がある。移住地では学校に通う傍ら、恵三さんも農地の整備や陸稲の種蒔き、除草、農薬散布、肥料施肥、収穫など農作業を手伝った。しかし、前年から3年続いた干ばつで作物は不作。陸稲のほか、トウモロコシや綿などを植えたが、セラード地で土地がやせていたことも重なり、うまく育たなかった。
当時、移住地には医者がいない状況だったが、なぜか農協の倉庫の中にレントゲン機器だけがあったという。「(JAMICの)職員がレントゲンの機械を移住地から持っていこうとすると、村の人は猟銃で威嚇して持っていかれないようにしていた」と当時の出来事を振り返る恵三さん。移住地内では、ダチョウに似た野性のエミューが歩いている姿を見たこともあり、「アフリカみたいな、えらい所に来たな」と子供心に感じたという。父親の正男さんは移住地の住環境が事前の宣伝文句と違っていたことについて、後にサンパウロ市のJAMIC事務所に文句を言いに行ったこともあったそうだ。
62年3月に酒本家はカンポ・グランデ市に移転。次兄が中心となって雑貨屋を始め、恵三さん自身は同市内の学校に通うようになった。雑貨屋は当初、町外れのノロエステ鉄道の線路沿いにあり、地元の労働者階級相手に必需品だけを売っていた。ところが、線路の向こう側に軍人とその家族向けのコンドミニアムができたことで、客が急増。売上げも増え、家を建てることができるほどだった。一方、両親と長兄は再びバルゼア・アレグレ移住地へと戻り、養鶏をやるために川にほど近い好条件の土地への移転をJAMICと交渉。30ヘクタールの土地を手に入れることができた。
恵三さんは20歳になった時、勉学のためにサンパウロ市に転住。ジェトゥリオ・ヴァルガス工業高校を卒業後、サンパウロ大学工学部に入学した。ある時、サンパウロ市に出てきた正男さんとともに会ったのが、当時の鐘紡ブラジル社の社長でブラジル日本文化福祉協会の第4代会長などを歴任した延満三五郎(のぶみつ・さんごろう)氏だった。正男さんが大阪時代に繊維専門商事会社で働いていたことが縁で、知人に紹介された。恵三さんは、その時に一緒に会った延満氏の次女の令子さん(72、兵庫県出身)と気が合い、28歳の時に結婚している。その後、親せきの紹介によりCBC重工(三菱重工の子会社)でエンジニアとして働いた。2017年に69歳で退職するまで、製鉄、石油精製、製紙・パルプ等のプラントの見積もりから、販売、設計、製作、施工等のプロセスで各地客先の大型設備、施設、工場を回った。
バルゼア・アレグレ移住地時代の生活について恵三さんは「あまり思い出はないが」と言いながらも、当時、父親の手伝いをしていた採卵養鶏の作業などで、いかに体力を使わずに効率的にできるかを考え実行。その後のエンジニアとして活動する素質は、移住地時代から備わっていたようだ。
月刊ピンドラーマ2022年10月号
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