伯国邦字紙四方山話 第1回 松本浩治 月刊ピンドラーマ2024年5月号
1994年1月からブラジル・サンパウロ市にある邦字紙(日本語新聞)の記者として活動させてもらい、今年で丸30年になる。「光陰矢の如し」というのが正直な気持ちだが、その間、『日伯毎日新聞』、『ニッケイ新聞』、『サンパウロ新聞』、そして現在唯一存在する『ブラジル日報』と時代とともに渡り歩いてきた中で、記者が感じた「今だから言える」四方山話を連載で紹介する。
ブラジル邦字紙の歴史を簡単に書くと、1916年に発刊した『週刊南米』が最初の邦字紙と言われており、『日伯新聞』、『伯剌西爾(ぶらじる)時報』がその後に続いた。しかし、第2次世界大戦で日本はブラジルの敵国となったため、30年代には各邦字紙は廃刊に追い込まれた。戦後、『サンパウロ新聞』(46年)の刊行を機に、『パウリスタ新聞』(47年)、『日伯毎日新聞』(49年)が発刊され、長年にわたって3紙の時代が続いてきた。
その後、日本政府の南米への移民政策も終了し、日本へのデカセギも増える中、ブラジル国内でもNHK国際放送がテレビで放映されるようになると、それまでの日本移民の情報機関だった邦字紙の役割は急速に衰退。98年には『パウリスタ新聞』と『日伯毎日新聞』が合併して『ニッケイ新聞』となった。日本語を読める1世読者の高齢化による激減とインターネット普及等もあいまった経営難などで、2018年末で『サンパウロ新聞』が廃刊。唯一残った『ニッケイ新聞』も経営難の上にコロナ禍が追い討ちをかけて廃刊となり、22年からは日本の元人材派遣業関係者が経営者となった『ブラジル日報』に名称を変えて存続しているのが現状だ。
さて、1994年当時、20代後半だった記者が最初に勤めた『日伯毎日新聞』の編集部は「倉庫」のように薄暗く、外回りの記者は日本から来た「日本ブラジル交流協会」(現・ブラジル日本交流協会)派遣の1年間の期間だけ働く研修生と、自分を含めた3人だけだった。その他の内勤の編集部員は自分の父親以上の年齢の方々がほとんどで、それぞれに翻訳、日本の新聞の整理や貼り付け、記者が手書きで書いた原稿の打ち込み等の仕事を行っており、悲壮感漂う雰囲気が広がっていた。
また、当時の編集部内にはなぜか、新聞の「見出し」や広告の文字を打つ写植の大型機械が置いてあり、担当のオッチャンが文字を打ち込むたびに「ガチャコン、ガチャコン」という音がやかましく響いていたのが印象的だった。
(つづく)
月刊ピンドラーマ2024年5月号表紙
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