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「就職はしたけれど…」 黒酢二郎の回想録  Valeu, Brasil!(第2回) 月刊ピンドラーマ2023年9月号

こんにちは、黒酢二郎です。前回はこのペンネームの由来、本誌に連載することになった経緯、大学卒業後に就職せずオーストラリアにふわふわと飛んで行ったことなどをお話ししました。

オーストラリアの家庭にホームステイしながら現地の小学校での役割を終えた私は、翌1989年、23歳の時に日本に帰国しました。就職が決まるまでの数か月間は実家に居候していたわけですが、父親からぐうたら息子に対して「お前いつまでこんな生活を続けとるんだ!早く仕事を見つけて経済的にも独立せんか!」と叱られたのは言うまでもありません。父上殿、その節は大変ご心配をかけてしまい申し訳ありませんでした。折しも、バブルが弾ける前だったおかげで、父親から雷をもらった数週間後には内定をもらうことができました。しかも、ある東証一部上場企業に途中入社することになったので、世間体を繕うこともできました。日本のバブル経済の状況を理解して意図的に就職活動の時期をずらしたわけでも何でもなく、川の流れに身を任せていたらそうなったわけですが、バブル景気が弾けて1991年から始まった就職氷河期に懸命に活動する学生たちの姿をニュースなどで見るにつけ、世の中のなんて不公平なんだろう、人生で最も大切なのは運を味方に付けられるかどうかに違いない、などと考えていました。

最近(2023年6月)日経平均株価がバブル景気後の最高値を更新しているようです。「失われた30年」を経て約33年ぶりの高値ということですが、今後日本経済は本格的に活力を取り戻すのでしょうか。帰国を目前にしている私にとっては気になる話題であり、日本でどう生きていくか思案している最中です。人出不足を逆手にとってアルバイトでもしながら生き延びよう、素敵な出会いもあるかも知れないなあ、などと思いを馳せる時間、これが男のロマンというやつです。単なるスケベおやじの妄想とも呼ばれているようですが・・・。

さて、就職して2年近くが経過しても仕事に遣り甲斐を見い出せず、悶々とした日々を送っていた私。ある日、以前から気になっていた健康上の懸念を相談するため診察に行ったところ、その場である病気と診断され緊急入院することになりました。すぐに手術が行われ、その後1か月間入院生活を送るはめになったのですが、その間ずっとベッドに横たわって安静を保たねばならず、じっとしていることが苦手な私にとっては正に拷問でした。入院中、家族や友人たちが見舞いに来てくれた時だけは無理して笑顔で対応するのですが、実は大いに落ち込んでいたのです。ただし、看護婦さんたちの献身的な仕事振りには感謝してもしきれません。

ただ落ち込むだけでは埒が明かないので、ベッドの上で生まれて初めて自分の将来のことを真剣に考えたのでした。 そして至ったのは、世間体を繕うためならどこでも良いと考えて入社した会社を辞めて、自分がしたいことをするという結論です。ただし、当時の私には起業するという勇気もアイディアもなく、自分が関わりたい分野の会社に転職するというのが最も現実的な選択でした。 晴れて退院した私は、早速転職先を探し当て、1991年、26歳の時にある未上場企業に転職することになったのです。その転職が、ブラジルで生活する直接的なきっかけとなりました。

(続く)


黒酢二郎(くろず・じろう)
前半11年間は駐在員として、後半13年間は現地社員として、通算24年間のブラジル暮らし。その中間の8年間はアフリカ、ヨーロッパで生活したため、ちょうど日本の「失われた30年」を国外で過ごし、近々日本に帰国予定。今までの人生は多くの幸運に恵まれたと思い込んでいる能天気なアラ還。

月刊ピンドラーマ2023年9月号表紙

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