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布団店を経営していた網野弥太郎(あみの・やたろう)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2023年6月号

網野弥太郎さん

県連(ブラジル日本都道府県人会連合会)会長やリベルダーデ文化福祉協会(ACAL)評議員会会長などブラジル日系団体の代表や役員を歴任し、約40年にわたってサンパウロ市リベルダーデ区で布団店を営業した経験を持つ網野弥太郎さん(86歳、山梨県甲府市出身)。現在は東洋街のマンションに夫婦で暮らす網野さんに、布団店時代の話など当時のことを振り返ってもらった。

男ばかり3人兄弟の長男である網野さんは、青年時代から「アメリカかカナダに行きたい」と海外に興味を持っていた。高校を卒業後、東京に出て商事会社で数年働いていた時、ふとしたことからブラジルに移住した成功者の名簿を見つけたという。海外に出たかった網野さんは、その名簿を頼りに20人くらいに手紙を書き、ブラジルに呼び寄せしてほしいとの思いを伝えた。その中で唯一、返信があったのがサンパウロ州プロミッソン市で衣料、反物等をはじめ、自動車・ガソリンなども扱っていた総合雑貨商の飯田彦光氏からだった。

ブラジル行きが実現した網野さんは、当時の日本で1年分の給料にあたる12万円の船賃を払ってオランダ船「チサダネ号」に乗船。1958年10月17日にサントス港に到着した。サンパウロから約450㎞離れたプロミッソン市にある「カーザ飯田」に住み込みで働くことになった網野さんは、自然とポルトガル語も覚えるようになり、日本の商事会社時代の手腕を生かして地方にも行商に行くようになった。

60年には父親と弟など家族をブラジルに呼び寄せ、サンパウロ市インジアノポリス区に布団店を開店。当時、経済的に苦しかった網野さんは布団の委託販売を実施した。コーヒー景気で沸くパラナ州や胡椒生産で潤っていたアマゾン地域のトメアスーなど遠方地を積極的に回り、戦前移民が日本から持ってきていた布団綿の「打ち直し」の注文も受けていた。「綿の打ち直しで家中がノミだらけになって大変だったね」と網野さんは当時を振り返る。また、暑さの厳しいアマゾン地域では、布団以外に蚊帳やタオルケットなどもたくさん売れた。

当初は地方への行商も汽車とバスを乗り継いで行き、現地では運転手付きの馬車を借りて回っていたという。情報や物品の少ない地方では、サンパウロから来た網野さんの話は珍しがられ、商品もよく売れた。その後はトヨタの小型トラック「バンデイランテス」車を購入できるほどになり、自ら運転して地方を巡るようになった。27歳の時にはサンパウロ州サンジョゼ・ド・リオプレット出身の日系2世である愛子さん(81歳)と結婚。さらに、65年に「網野ふとん店」をリベルダーデ区のエスツダンテ街に開店。70年には2号店を同街のリベルダーデ広場と接する角地に開けるなど繁盛した。

東洋街に店を構えたことで、地元のリベルダーデ商工会(現・リベルダーデ文化福祉協会、ACAL)や文協(ブラジル日本文化福祉協会)などの役員たちとも懇意になった。商売で得たアイデアを生かし、県連会長など日系団体でも手腕を振るった。特に1994年から2000年まで3期6年を務め上げた県連会長時代には、日伯修好100周年(95年)、移民90周年(98年)など大型イベントも続き、現在の日本祭り(フェスティバル・ド・ジャポン)の原点となった「郷土食・郷土芸能フェスティバル」も98年に実現させた。

網野さんは「本当にたくさんの仲間の方々に協力いただいた」と当時の県連会長時代を振り返り、ブラジルと日本に数多くの知己を得たことに感謝の気持ちを込める。

繁盛した布団店は時代の流れとともに縮小し、網野さんの長男と長女は現在、ビジネス街のパウリスタ大通りに程近いブリガデイロ・ルイス・アントニオ通り沿いでチョコレート、クッキーといった菓子類やワインなど飲食物の販売店を経営している。

ブラジルに来た当初は「日本には帰らない」との心構えで1973年にはブラジル国籍に帰化している網野さん。故郷である日本で台風や地震等の自然災害報道を見聞きするたび、「子孫のためにも、日本人にブラジルに来てほしい」との思いを強くする。「ブラジルは確かに治安が悪いが、自然災害もほとんどなく住みやすい」と網野さんは、自ら決心してブラジルに来たことを心から良かったと実感している。

(2023年4月取材)


松本浩治(まつもとこうじ)
在伯25年。
HP「マツモトコージ写真館」

月刊ピンドラーマ2023年6月号
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