パウロ・フランシス(ジャーナリスト・作家、1930-1997) ブラジル版百人一語 岸和田仁 月刊ピンドラーマ2023年2月号
軍政による言論弾圧・検閲から言論の自由が回復した年は1979年であったから、1980年代は、ブラジルの新聞や雑誌メディアが一番溌溂としていて読者にとっても面白かった時代だ。数多いメディア媒体のなかでも筆者が夢中になって読んだのが、雑誌では週刊誌イストエ、新聞ではフォリャ・デ・サンパウロであった。そのフォリャ紙の在米(ニューヨーク)契約記者として、ポレミックな記事を書きまくっていたのがパウロ・フランシスだった。
カエターノ・ヴェローゾが自伝的随想録『熱帯の真実』(初版1997年、増補新版2017年)の新版への序で「フランシスは、僕にとって青春時代の英雄の一人」、「この本を書くということは、大まかに言って、彼に向けた行為だった。彼が認めざるを得ないレベルのポルトガル語で執筆できるということを、彼に見せたかった。僕の書いたものを彼が酷評し、スタイルや意見の弱点を暴くところを想像していた」と言及した人物だが、パウロ・フランシスは筆名で本名はFranz Paul Heilbornであり、欧州移民三世(父方はドイツ系、母方はフランス系)だ。
1960年代から70年代にかけて軍事政権批判の急先鋒として八面六臂の活動を展開していたため、欧米メディアから「ブラジル左翼のベスト・ジャーナリスト」と評価されたフランシスは、若き日はトロツキーを愛読・崇拝する左翼演劇青年で、演出から演劇批評まで手掛けていた。毎日6時間もの読書を自ら課し、文学であれ社会科学であれ英語・フランス語・ドイツ語などの古典から新刊まで耽読し、その独善的といえるほどの強烈に断定的な文体で文章を書きまくった批評家にしてジャーナリストであった。晩年の彼が望んでいたことは作家として「優れた全体小説」を書くことであったが、生前に発表されたフィクション作品は4冊(2冊が長編小説、2冊は短編集)に止まった。その意味では「未完の作家」であった。
軍政時代は自身の“筆禍”によって何回も逮捕拘束され、書くものはほぼ全て検閲されたため、1971年ニューヨークへ自主亡命することに。1980年代に入ると活躍の場を新聞(1975年から1991年までフォリャ・デ・サンパウロ紙、91年からエスタド・デ・サンパウロ紙)だけでなくテレビにも広げ、グローボTVのニュース番組ではコメンテーターとして国際政治からハリウッド映画までそれこそ森羅万象について語っていた。60年代はフランクフルト学派とりわけマルクーゼの紹介者としても知られていたが、90年代になると、米国流ネオリベラリズムを礼賛し共和党支持を言明するようになっていく。
冒頭に引用したのは、彼の歴史評論『世界の中のブラジル』(“O Brasil no Mundo” (J.Zahar Editor 1985))からであるが、この著書は、サブタイトルが「権威主義の政治分析―その起源から」となっているように、ブラジルで何故、民主主義に逆行する軍事政権が成立したのか、その歴史的背景を彼らしい饒舌文体で叙述したものだ。彼によれば、ブラジルが経済的にも社会的にも後進国になってしまったのは、”二流のキリスト教”であるカトリック(特にイエズス会)が支配したからだ、ということになる。
月刊ピンドラーマ2023年2月号
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