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理髪師だった須崎節子(すざき・せつこ)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2024年3月号

須崎節子さん

「本当に皆さんに良くしていただきました」―。こう語るのは85歳まで理髪師として働いた須崎節子さん(92歳、熊本県出身、旧姓・蓑毛(みのも))だ。背がスラッと高くて姿勢もよく、とても92歳とは思えない若々しさが印象的だ。

10人兄妹の2番目に長女として熊本県で生まれた節子さん。父親が戦前、海外のブラジルに行くか、親せきを頼って鹿児島に引っ越すかで迷っていたが、結局は鹿児島行きを選んだという。しかし、鹿児島で空襲に遭い、戦後は家族で熊本へと戻ることになった。節子さんは15歳の時に親せきの伝手で、宮崎県の「旭化成」で事務員として働くことに。同地も戦後は焼け野原となっており、会社の製造機械もサビだらけで、まずは紙やすりでサビを落す作業から始まったという。戦後の食料難の時代で、結婚資金も自ら稼がないといけなかった当時。同地で農業生産をし、花嫁を探していた須崎蓑治(みのじ)さん(故人)と28歳で見合い結婚することになった。

その頃、戦前にブラジルに渡っていた義父の親せきが熊本県に一時帰国していたことが、須崎夫妻の運命を変えた。その親せきからブラジルの景気の良い話を聞いたことで、「ブラジルはそんなに儲かる所なのか」と沸き立ち、須崎家の構成家族の一員として1960年に海を渡ることになった。

オランダ船「ボイスベン号」で神戸から出航したが、その頃すでに節子さんの腹には2人目の子供が宿っていた。結局、船の中で次男を出産することになり、看護師たちからは事前に「病室に移りなさい」と手厚い看護を受けた。ブラジルに着いた家族は、親せきを頼ってサンパウロ州アチバイア市近郊のピラカイヤという農村に入植した。しかし、家の壁は泥塗りで、日本で聞いていた話との相違に当初は「がっかりした」(節子さん)という。

同地で2年間トマト作りを行った結果、値段が良かったこともあり、少しは儲けることもできた。須崎家族はサンパウロ市に出ることにしたものの、蓑治さんは手に職もなくブラブラしていた時に、たまたまカンタレーラ中央市場付近の日系理髪店に入った。そうしたところ、「俺が教えてやるから理髪店をやれ」と店主に言われ、技術も何もなかったが、ビラ・プルデンテ地区に理髪店を開業することに。節子さんも手伝いをしていたが、蓑治さんは芸能事が好きで地方などに赴くことが多く、仕方なく節子さんが理髪師の免許も持たないまま、理髪店を切り盛りすることになった。

その後、セントロ区カンタレーラ付近の店で働くなどしていたが、日頃から理髪師としての免許が必要だと感じていた。ある時、ひょんなことから見知らぬブラジル人紳士と出会ったが、その人はシンジカット(理髪業組合)の役員だったことが判明。タクシーでシンジカットの事務所に連れて行かれ、長い列が出来ていたにも関わらず、なぜか簡単に理髪師の免許を取得することができたそうだ。

1962年ごろの節子さん(右)

その後、半日はセントロ区、半日は南伯(スール・ブラジル)農協ビル内の階上で理髪業も行うようになった。その頃は女性の理髪師は珍しかったようで、節子さん目当ての来客も少なくなかった。

58歳の時に日本に出稼ぎに行き、2年間を過ごしたが、60歳でブラジルに戻った時に、リベルダーデ区にあった「木村理髪店」に誘われ、25年にわたって同店で髪を切り続けた。

1990年代前後は、日本からのサッカー留学生も数多かった時代で、その中にサントスFCなどで活躍し、後の日本のJリーグの立役者となった「カズ」こと三浦知良選手もいた。木村理髪店にカズがちょくちょく髪を切りに来ていたことから、同店にはカズに憧れるサッカー留学生も多く来店し、一時は「若い子(サッカー留学生)たちで店がいっぱいだった」こともあったという。

「私はどこででも運が良く、本当にいろいろな方たちに助けていただいた」と感謝する節子さん。現在は娘と旅行したり、一人で公園の散歩に行くなど、自由な日々を楽しんでいる。

(2023年12月取材)


松本浩治(まつもとこうじ)
在伯25年。
HP「マツモトコージ写真館」

月刊ピンドラーマ2024年3月号表紙

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