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宮城県人会婦人部の伊藤フミエさん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2023年10月号

伊藤フミエさん

「とにかく、じっとしているのが嫌なのよ」―。

こう語るのは、サンパウロ市リベルダーデ区にあるブラジル宮城県人会の婦人部員として長年にわたって活動している伊藤フミエさん(89、宮城県柴田郡出身、旧姓・太田)だ。

フミエさんは、ブラジル日系社会で最古の裁縫学校と言われた「赤間学院」の故・赤間みちへ校長の姪に当たる。自身は同校で裁縫を習った経験はないものの、手先が器用で各地からのイベント依頼を受けて七夕飾りを作ったり、書道、絵手紙や健康体操教室に通うなど現在も多忙な日々を過ごしている。

第2次世界大戦後、経済的に苦しかったこともあり、「勉強などしている余裕はなかった」というフミエさん。そのため、宮城県内の中学校を卒業後、地元のゴム製造会社で働いた。20歳の時に知り合いの紹介を得て、神奈川県から宮城県の開拓地に働きに来ていた当時29歳の伊藤友吉(ともきち)さん(故人)と結婚した。

兵隊の経験を持つ友吉さんは、狭い日本を離れてブラジルでファゼンデイロ(大地主)になることを希望していた。力行会を通じて1954年頃、横浜港から乗船して海を渡ってきたが、当初、フミエさんはブラジルに行くことにはあまり乗り気ではなかったという。しかし、自身の父親の妹に当たる赤間みちへさんが戦前にブラジルに渡っていたこともあり、祖父から勧められたこともあって異国に行くことを決意したそうだ。

ブラジルに来た当初、伊藤家族は、力行会の先輩のツテを頼ってサンパウロ州アチバイア市近郊のピラカイアという場所に入植し、玉ねぎ栽培を行った。フミエさんも幼い子供の面倒を見ながら玉ねぎ栽培を手伝ったが、農薬中毒になったことで、家族でサンパウロ市へと出ることに。叔母の赤間みちえさんの所で世話になり、友吉さんは2年ほど、裁縫学校で事務員として勤務。日本で書道を習っていたことから、赤間学院の生徒たちの卒業証書を手書きで作ったりもしたという。

フミエさんは生前の赤間みちへさんについて
「(赤間学院の)生徒には厳しかったね。でも、私たちの子供には優しくて、一緒にトランプをして遊んでくれたりもしましたよ」
と当時を振り返る。

その後、友吉さんは赤間学院の事務員を辞めてサンパウロ市内のエビ煎餅の工場勤務やセールスマンとして働くようになり、フミエさんとの間に1男2女の3人の子供にも恵まれた。

フミエさんは子供が手がかからなくなった頃から、ブラジル宮城県人会の事務局長を長年勤めた後藤信子さん(故人)と仲が良かったこともあり、後藤さんから頼まれて同県人会の婦人部活動を行うようになった。その間、県人会の各種イベントでの食事作りをはじめ、長年にわたって七夕飾りの製作にも携わってきた。

また、90年代には友吉さんの妹の手伝いとして、神奈川県川崎市に「出稼ぎ」を兼ねて8か月ほど滞在。夏場は弁当屋での食事作り、冬場はガソリン・スタンドでの仕事もこなしたという。

友吉さんは2000年頃に74歳で亡くなったが、フミエさんはその後も宮城県人会婦人部で活動し、同県人会で月2回開催されている「青葉祭り」で、会館屋上での昼食作りなどを手伝ってきた。さらに、89歳になった現在でも熟年クラブ連合会の教室で、絵手紙、書道のほか、健康体操も行うなど友達も数多い。

「家に居ても編み物をしたり、料理を作ったり、何か動いていないと気が済まないのよ」
と話すフミエさん。取材した日も、宮城県人会館での七夕飾り作りに余念がないほど元気な様子だった。

(2023年8月取材)


松本浩治(まつもとこうじ)
在伯25年。
HP「マツモトコージ写真館」

月刊ピンドラーマ2023年10月号表紙

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