長年、測量士の活動を行ってきた鈴木源治(すずき・げんじ)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2024年1月号
ブラジル山形県人会の副会長を務め、長年、測量士としてブラジル各地で現場仕事を行ってきた経験を持つ鈴木源治さん(85歳、山形県出身)。穏やかな性格だが、測量という自身の仕事に関しては常に矜持を持って取り組んできた。
山形市で米作農家の四男として生まれた鈴木さんは、地元の夜間工業高校に通いながら、日中は米作を行っていた父親を手伝う日々を過ごした。在学中の17歳頃から、山形県庁の土木課が募集するアルバイトとして測量の仕事に携わったことが、その後の人生を大きく変えた。
高校の友人からの情報で、山形県で最初に発足した産業開発青年隊の制度を知った鈴木さんは、18歳の時に入隊。山形県と宮城県を結ぶ観光道路「蔵王エコーライン」の測量も行った経験がある。
高校卒業後、青年隊としてそのまま県庁の土木課で公務員として働くことになった鈴木さんは、当時の土木課長に「ゆくゆくはブラジルに行きたい」と打ち明けていたという。課長からは「ブラジルに行くなら、まずは測量のきちんとした技術を身につけろ」と助言され、19歳の時に測量の専門知識を補うために東京都の建設省(現・国土交通省)に出向。「三角測量」など高等技術の勉強や山梨県での実習のため半年間にわたって滞在した。
当時は富山県の黒部ダム建設が行われていた頃で、「(ダムの現場で)測量士として働かないか」との誘いもあったという。東京での半年間の出向を終え、「現場仕事は金にもなるし、ブラジルに行くための資金にもなる」と黒部ダム行きも考えていた鈴木さんだが、山形県庁の土木課から係長が迎えに来たこともあり、結局は一緒に山形県へと帰郷。半年ほどは以前の土木課で働いた。
その後、いよいよ「ブラジルに行きたい」との思いが強まった鈴木さんは、南米産業開発青年隊6期生として60年8月、「あるぜんちな丸」に乗船し、横浜港を後にした。
ブラジルに渡ってすぐ、パラナ州セーラ・ドス・ドウラードスにあった「パラナ訓練所」で6か月間の研修を行ったが、その間にマラリアに罹患。当時、訓練所から約100㎞離れたウムアラマ市にしか病院はなく、生死をさまよっていた鈴木さんを救ったのが、巡回診療で同地を訪れていた細江静男医師だった。特効薬「キニーネ」の注射を打たれた3日後に熱が下がり、今でも鈴木さんは細江医師のことを「命の恩人」と感謝している。
その後、サンパウロ州の茶の産地タピライで植民地造成のための測量仕事を行ったが、今度は黄疸の症状が出てピエダーデ市の病院に入院した経験もある。そうした頃、当時の海外移住振興会社(JAMIC、現JICA国際協力機構)がグァタパラ移住地を造成することになり、測量士の仕事を募集。鈴木さんは青年隊のメンバーらとともに、JAMICの現地採用職員として働くことになった。
グァタパラ移住地では、農地、水田地、雑作地、柑橘地の4種類に分けて測量が行われたが、その後に入植した日本移民から「実際の土地面積が(測量後の区画面積より)少ない」と文句を言われたこともあったという。しかし、苦情を申し立てた移民に自分たちの土地面積を計測させたところ、問題なかったことが判明。鈴木さんは自分たちが行った測量の仕事には絶対的な自負心を持っていた。
同移住地で2年を過ごした後、サンパウロ市に出た鈴木さんは日本人の知り合いの測量会社に就職し、自身は現場での測量作業を続け、チエテ川の改修やサンパウロ州奥地トレス・ラゴアス発電所の送電線建設のための測量などで各地を歩き回った。しかし、測量会社の経理担当が鈴木さんの給料を半年間入金しない事態が発覚し、裁判沙汰にまで発展。勝訴したものの、鈴木さんは今度はフリーランスの立場として測量の仕事を継続することになった。
幸い、日本で身に付けた測量技術がモノを言い、当時、コチア産業組合がコチア青年を独立させるために造成された日本人移住地がリオ州、パラナ州、サンパウロ州など各地にあり、仕事には困らなかったという。
「その頃はまだ独身で、半年現場に入って3か月は休みという生活。休みの日にはリベルダーデ(区)に映画を見に行ったり、(当時はあった)パチンコをしたり、金がなくなったら仕事をするというような生活だったね」
と当時を振り返る。
友人の紹介により、アマゾン移民としてトメアスーに入植していたマサ子さん(80歳、宮崎県出身、旧姓・日野)とサンパウロで知り合い、26歳で結婚した鈴木さん。日本電気(NEC)がエンブラテル(ブラジル電気通信公社)から請け負っていたマイクロウェーブ回線導入のため、測量士を募集していたことを知り、NECに入社。家族をサンパウロ市に住ませて、自らはリオやブラジリアなど地方現場で働く日々を過ごした。その間、ブラジアリア、ベレン、マナウス間をつなぐマイクロウェーブ回線のための測量も行ったりしていた。
「アマゾンの現場でびっくりしたのは、暑いと思って半袖半ズボン姿でマット(原始林)に入ったところ、日中でも寒くなって1時間もおれなかったこと」
と語る鈴木さんは、様々な現場での中でもアマゾン地域での測量の大変さが一番印象に残っているという。
女の子ばかり3人の子供に恵まれた鈴木さんは、長女が県費留学で日本に行きたいとの気持ちがあったため、1990年代から山形県人会に入会。長女と三女を母県に留学させることができたが、その分、自身が山形県人会の役員を務めるなど恩返しも行ってきた。
その後、NECの関連会社NESICの資材部長として、建設用資材の仕入れや発送の仕事にも携わってきた鈴木さんは、63歳で会社を引退。その後も山形県人会には携わり、現在も副会長として協力している。「趣味は釣りとゴルフ」と語る鈴木さんは、今も事あるごとに県人会事務所に顔を出すなど、地道な活動を続けている。
月刊ピンドラーマ2024年1月号表紙
#写真 #海外 #海外旅行 #海外移住 #ブラジル
#移民 #サンパウロ #月刊ピンドラーマ
#海外移民 #日系移民 #ピンドラーマ
#日本人移民 #松本浩治
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?