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「アフリカ、ヨーロッパへ」 黒酢二郎の回想録  Valeu, Brasil!(第9回) 月刊ピンドラーマ2024年7月号

前回まではブラジルで駐在員として働いていた頃(1992~2002年)のことをお話しました。結婚して2人の子宝にも恵まれ、順風満帆の人生を送りましたとさ・・・とおとぎ話のようにはいかないのが現実です。その後、ブラジルでは2期8年続いたカルドーゾ政権に代わり、2003年から労働者党のルーラが大統領に就任し、2期8年間、2010年まで政権を担当しました。その間にブラジルは、2008年に日本人移民100周年を迎え、またロシア、インド、中国とともに成長著しい新興大国としてBRICsと称され、国際社会の新たな舞台に躍り出たわけですが、ちょうどブラジルが輝きを増していたその時期に私は転勤でアフリカやヨーロッパで暮らしていたので、その勢いを現地にいながら肌で感じることはできませんでした。

アフリカに転勤になった理由は、治安の良くない地域に送り込むのにおあつらえ向きの存在だったからだと思っています。つまり危険地要員というわけです(笑)。ブラジルから世界最恐と言われるアフリカのある国に転勤になったのですが、ブラジルの治安水準に慣れていたせいか、それほど恐ろしい環境だとは感じられず神経質になることはありませんでした。ブラジル生まれブラジル育ちの奥様も肝が座っていたのか、鈍感力が訓練されていたのか、いずれにしても平気な顔をしていたので大いに救われました。住んでいた地区のご近所さんにはユダヤ教徒が多く、仕事で知り合った人々にはイスラム教徒やLGBTを公言している人も多く、彼らにパーティや結婚式に招待してもらったりして異なる文化や価値観を学ぶにつれ、それまで私が抱いていた偏見が少しずつ消え去り、 新たな視座を構築できた時期でもありました。

お世話になっていたお客様の中にイスラム教徒で眼鏡をかけて常にヒジャブで頭部を覆っていた女性がいました。ある日のイベントにウェーブのかかった艶のある髪をなびかせながら颯爽と歩く魅力的な女性が現れました。今まで見たことのないその美女は一体誰だろうと思っていたら、なんと件のイスラム女性が眼鏡もヒジャブも着用しないばかりか、化粧までして現れたというわけです。なぜその日だけいつもと違う出で立ちだったのかは不明ですが、見てはならないものを目撃してしまったような不思議な感覚に襲われました。白状すると、それまで封印されていたからこそ彼女の頭髪や口紅が、妙にエロく感じられたのです。やたらと露出度の高いブラジルとは異なる、新たなエロチシズムの境地に足を踏み入れた瞬間でした。そのような意味合いも含め、アフリカでの暮らしは世界観を多いに広げてくれました(笑)。

さて、当時の黒酢二郎は家族よりも仕事優先というマインドセットだったので、家庭では奥様に対して十分に気遣いができていませんでした。乳幼児2人を連れて世界最恐国で暮らすのは、さぞ大変なストレスだったことでしょう。またアフリカ赴任中にブラジルに住む奥様の父親が病死したりと、奥様には大変申し訳ないことをしたと今でも思っています。その後もなんやかんやですれ違いが発生し、結婚後8年が経過した2006年に離婚となりました。その時に奥様から伝えられた言葉は決して忘れることができません。「世の中に元夫や元妻という言葉はあるけれど、元子どもという言葉は存在しないのよ。夫婦は離婚しても、生涯子どもの父親や母親であり続けるの。子ども達を育てる義務と責任は一生かけて果たして行きましょうね。」と。正に異議なし!の大賛成メッセージでした。そして更に「あなたは夫としては最低だったけれど、父親としては最高だったわ」とけなされると同時に褒められたのもよく覚えています。それには異議あり!と叫びたい気持ちもありましたが、敢えて黙認しておきました。ブラジルでは結婚する時に、離婚の際の財産分与の方法も予め決められていたので、その後の手続きは問題なく進みました。

離婚後、元奥様と子どもたちはブラジルに戻ったわけですが、私はその後も約1年アフリカに留まり、その後はヨーロッパに転勤になりました。ヨーロッパに転勤になった理由は、長い間南米やアフリカという危険な地域で勤務したので、そろそろ治安の良い土地に送ってやろうと会社が温情を示してくれたのだと思います。

ヨーロッパでは自分が思い描いていた幸せな家庭像とバツイチの冴えないオヤジという現実との埋めきれないギャップがトラウマとなり、うつろな目で日々を送っていました。そんな黒酢二郎が、多少心身の調子が悪くても診察にも行かずに放置し続けていたある朝、急にベッドから起き上がれなくなってしまいました。身体が意図した通りに動かなくなり、自分でも何が起こったか解らずにパニックになった私は、会社の先輩に電話をして迎えに来てもらい、病院に直行となりました。一人でトイレに行くこともできないほど精神と身体が弱っており、結局一週間入院してやっと回復できました。無意識のうちに疲労やストレスが蓄積され、限界に達していたのかも知れません。

26歳の時に病気で1か月間入院した際に転職を決断したと以前にお話しましたが、今度は42歳で1週間入院した時に将来の方針についてじっくり考え、いずれは子ども達のいるブラジルに戻って暮らすと決意したのでした。転職は退院後にすぐ実施できましたが、ブラジルへの帰還を実現するのには数年間を要することになります。いずれにしても、どうやら黒酢二郎は入院しないと大きな決断ができない人間のようです。

(続く)


黒酢二郎(くろず・じろう)
前半11年間は駐在員として、後半13年間は現地社員として、通算24年間のブラジル暮らし。その中間の8年間はアフリカ、ヨーロッパで生活したため、ちょうど日本の「失われた30年」を国外で過ごし、近々日本に帰国予定。今までの人生は多くの幸運に恵まれたと思い込んでいる能天気なアラ還。

月刊ピンドラーマ2024年7月号表紙

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