日伯のダンボール会社でデザインを担当した高嶋伸好(たかしま・のぶよし)さん 移民の肖像(最終回) 松本浩治 月刊ピンドラーマ2024年4月号
「私みたいな人間は珍しいと思いますよ」―。サンパウロ市リベルダーデ区に住む高嶋伸好さん(86、北海道生まれ)は、青年期に渡ったブラジルと帰国後の日本でそれぞれ違うダンボール会社のデザイン担当の仕事を行い、60歳の定年後に再びブラジルに戻ってきたという貴重な経験を持っている。
父親がフィリピンのマニラで戦死し、第2次世界大戦後、2人兄弟の長男として母親に育てられた高嶋さん。神奈川県内の法政大学附属第二高校に通ったが、卒業前から1年ほど、「遠い親戚だった」ダンボール会社『横浜紙器』の社長の下で絵を描いたり、デザインを行うアルバイトを行っていた。そうしたところ、同社が海外移住事業団(現JICA国際協力機構)神奈川県事務所の斡旋により、サンパウロ市近郊に日伯合弁会社を設立することに。手先の器用さを見込まれていた高嶋さんは社長から「ブラジルに行かないか」と声を掛けられ、「珍しいから行ってみよう」と、その気になり、日本側スタッフの一員としてブラジル行きを決意した。
高校を卒業して18歳になっていた1956年7月、同じような年齢の日本人男子10数人とともに「ぶらじる丸」で海を渡った。サンパウロ市近郊のサントス街道近くに建てられた『横浜紙器』の日伯合弁会社でも高嶋さんは、印刷部門でデザインを担当した。しかし、一緒に来た同期の日本人スタッフたちは1人、2人と次々に辞めては日本に帰国。異国の地での会社生活の中で、気づけば日本からのスタッフは高嶋さん1人になっていたという。同社は結局、3年後に潰れてしまい、高嶋さんはデザインの技術を見込まれてポルトガル系ブラジル人が経営する別のダンボール会社で10年間にわたって働くことになった。
ポルトガル語も自然と覚え、独身生活を謳歌していた高嶋さんだったが、現在よりも圧倒的に情報量が少ないブラジル社会の中で、次第に日本への郷愁が高まっていった。13年間にわたって過ごしたブラジル生活に見切りを付け、30歳を過ぎた頃に日本へと飛行機で帰国したのだった。
故郷に戻り、しばらくは母親が住んでいた横浜市の家で暮らしていた高嶋さんは、東京の印刷会社に就職。日本でも同様に、ダンボール箱にデザイン画を描くなど版下作りに携わるようになった。間もなく、4歳年下で当時28歳だった日本人女性と結婚し、長男も授かった。しかし、結婚して6年後に妻が亡くなり、高嶋さんは子供の世話をしながらも、その当時の定年だった60歳まで約30年にわたって同じ印刷会社で働き続けた。
その間、楽しみもあった。趣味で盆栽を始め、30人ほどが集う「盆栽クラブ」の旅行では東北地方や北陸方面にも足を伸ばした。また、カメラにも凝り、好きな花や植物、風景などの写真を数多く撮ってきた。「盆栽クラブは女性が多く、おばちゃんたちには結構モテましたよ」と高嶋さんは日本での出来事を楽しそうに振り返る。
日本で定年退職後、「再びブラジルに行きたい」との思いが強まった。「日本は何でもあって便利なんですが、仕事はあまり楽しくはない。ブラジル時代の友人から何度も『(ブラジルに)来ないか』と誘われていたこともあり、定年を機会に再びブラジルに住もうと思いました」と高嶋さんは、自身の思いに正直に生きてきた。
ブラジルに再渡航するにあたって永住ビザの申請が必要だったが、ブラジル人の友人がディスパシャンテ(代行業)だったこともあり、簡単に永住ビザを取得することができたという。
現在、日本には息子と孫が住んでおり、「ブラジルに何回か呼んだけど、(ブラジルの)イメージがあまり良くないらしく、いまだに来たことがない」と苦笑する高嶋さん。ブラジルに再渡航してすでに20年以上が経つが、その間に4、5回は日本に一時帰国しているとも。「今年は4年ぶりに日本に帰りたいと思っています。温泉にでも行ってゆっくりしたいですね」と笑顔を見せていた。
「移民の肖像」は今号をもちまして連載終了となります。長い間ご愛読いただきありがとうございました。
月刊ピンドラーマ2024年4月号表紙
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