「大学はでたけれど…」 黒酢二郎の回想録 Valeu, Brasil!(第1回) 月刊ピンドラーマ2023年8月号
皆さん、はじめまして。黒酢二郎(くろず・じろう)と申します。先日(6月中旬)、リベルダーデの路上で本誌編集長と久しぶりにバッタリ出会い、世間話となりました。その際に、私が近々ブラジルを去り、日本に帰国することをお伝えしたところ、これまでのブラジル生活を振り返り、誌面で共有してみませんか?との提案をいただきました。それに対して私は「了解です、すぐ書きますよ!」と、その場で安請け合いしてしまいました。この年齢になると視力が落ちて困っているのですが、それがきっかけで眼もわーるくなったアラ還(アラウンド還暦)がメモワールを綴ることになった次第です。人間万事塞翁が馬、今まで生きてきた足跡を振り返る意味合いで引き受けることに致しました。
本誌に「カメロー万歳!」を連載して大好評を得ておられるユーチューバーの「ブラジル露天商しらすたろう」こと白洲太郎氏のことは、皆さんもご存じのことでしょう。実は私、白洲氏の大ファンでありながら、今までそのことを公言しなかった隠れファンです。この連載を機に白洲氏のファンであることをカミングアウトし、氏にあやかって黒酢二郎というペンネームを付けさせていただきました。バイーア州の片田舎で質素かつ逞しく暮らす白洲氏のような面白い文章が書ける由もありませんが、少しでも読者の皆様のお役に立つべく、というより嘲笑していただくべく自らの恥を世間に晒すことにいたします。長時間じっくり発酵させ、風味豊かな琥珀色の黒酢のように、そして「ジロリアン」と呼ばれる熱狂的ファンのいるラーメン二郎のように、とは高望みし過ぎですが、しばらくの間辛抱して黒酢二郎にお付き合い下さると幸いです。
通算で24年間暮らしたブラジル。前半(1992~2002年)は駐在員として、後半(2011~2023年)は現地社員として悪戦苦闘し、またその間(2003~2010年)はアフリカとヨーロッパで駐在員をしていたので、ちょうど日本経済が停滞し国際競争力が弱まった「失われた30年」を偶然にも国外で過ごしたことになります。本連載ではブラジルでの思い出を中心に回想したいと思います。
思い起こせば35年前の1988年、在学中はろくに勉強もせず、卒論も複数の書籍から文章をコピーして提出し、まんまと大学を卒業した私は就職することなく、暢気にオーストラリアに遊びに行ってしまいました。当時の時代背景は、1980年代に『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がベストセラーになって日本経済が黄金期を迎えており、日本企業は好景気と円高を背景に外国の土地や企業を積極的に買収し、またオーストラリアは白豪主義という人種差別的移民政策を見直し、アジア太平洋国家を目指してアジアからの移民を受け入れていた時期でした。オーストラリアでは1年弱の間、現地の小学校で日本文化を教えるという役割だったのですが、生徒の受けが良かったのは、和式トイレの紹介(座り方の実演も含む)で、学校で生徒自身が教室や校内の掃除をするという事実も大いに驚かれました。当時は現在のようなプレゼンテーション用の便利なツールがなく、日本でスライドを作成して持っていき、現地ではカーテンを閉め電気を消すなどして周囲を暗くした上でオーバーヘッドプロジェクターを使って見せるという時代でした。
ちょうどその年はオーストラリアの独立200周年に当たり、国内各地で様々なイベントが行われ、国を挙げて祝っていたことを記憶しています。ブラジルは昨年(2022年)独立200周年を迎えましたが、国を挙げて大規模に祝うという雰囲気ではなかったように感じます。コロナ禍中であり、選挙を控えていたことも影響したのでしょうか。私が大学卒業後にすぐ就職しなかったのは、単純に働きたくなかった、社会人デビューするのが恐ろしかったというのが理由です。モラトリアム人間の典型だったわけですね。幸いにして当時の日本はバブル景気が続いており、就職に関しては超売り手市場という状況だったため、私もその雰囲気につられて相当ふわふわと浮かれていたのです。
(続く)
月刊ピンドラーマ2023年8月号表紙
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