歌が大好きな津田節代(つだ・せつよ)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2022年11月号
「歌が好きで好きでたまらない」―。こう語るのは、毎月第2、第4日曜日にサンパウロ市ビラ・マリアーナ区の大阪なにわ会館で行われているサウーデ楽団の生バンド演奏により、歌謡曲などを歌っている津田節代さん(91、大阪府出身)だ。高齢となった現在も矍鑠としており、明るく世話好きな性格が皆から好かれている。
両親は東京都に住んでいたが、1923年の関東大震災で自宅が火事で焼け、大阪に移転。父親の宮野清助(みやのせいすけ)さん(和歌山県出身)は軍需工場に勤めたが、絵画が好きで、当時東京に住んでいた親から送られた仕送りを絵画に使い込むほどだったという。
31年、清助さんは夫人と一男三女の子供を連れて「さんとす丸」でブラジルへ渡り、サンパウロ州北部のモジアナ地方に入植した。末っ子で三女だった節代さんは当時、3歳。幼いながらに「家の戸も無く、放し飼いの鶏が家の中と外を出たり入ったりしていたのを薄っすらと覚えている」という。
その後、宮野家族はサンパウロ州ガルサ市近郊のロッサ・グランデという日本人植民地に転住したが、生活は安定しなかった。姉たちは早くに嫁ぎ、兄はタイヤ修理の職を得て単身、ガルサの街で働いた。その間、生活のために学校にも行けず、両親とともに農作業を行っていた節代さん。「ヤマ(耕地)でエンシャーダ(鍬)を引く生活をしながらも、(日本の)宝塚(歌劇団)に入る夢をしょっちゅう見ていました」と当時の厳しかった時代を振り返る。
兄の呼び寄せで、両親とともにガルサの街に出たのが20歳の頃。同地の日本人会で音楽部に入った節代さんは、小遣いを貯めてマンドリンを購入した。寺尾という音楽教師の指導を受け、バイオリン、ギター、アコーディオン、ドラムなどを演奏する他の仲間とともに演奏活動を行った。
「その頃は今のようにシェロックス(コピー機)などないので、寺尾先生から演奏曲の楽譜を渡されたら、自分で書き写して他の人に楽譜を回すという時代でした。そのため、今でも楽譜を読むことができます」
と当時の音楽活動が節代さんの音楽好きの原点となっているようだ。
一方、兄が呼び寄せたガルサの家のガレージをアトリエにしていた父親の清助さんは、死ぬまで絵画を描き続けたという。
「父は何かあると怒鳴る人でしたが、戦前だった当時でも日本から『幼年クラブ』『少年クラブ』などの雑誌を取り寄せ、私達子供に日本語を教えてくれました。そのお陰で日本語も読めるし、少しは書くこともできることに、今はありがたいと思っています」
と、節代さんは亡き父親への思いを語る。
28歳の時、一つ年上で家具業を営んでいた津田昭雄(あきお)さん(北海道出身、約40年前に50歳で他界)と結婚。アダマンチーナ市を経て、夫の仕事の関係で60年代半ばに家族でサンパウロ市へと引っ越した。一男二女の子宝に恵まれた節代さんは、子供たちの教育と日々の生活に追われ、その間は音楽活動を行う暇もなかった。その後、夫と死別し、子供たちも成人となった60歳ぐらいの時、友人からカラオケに誘われたのが、現在のように歌を歌うきっかけとなった。
カラオケ歴約30年の節代さんは、10年ほど前にサウーデ楽団の存在を知った。現在は大阪なにわ会で広瀬秀雄氏の指導を受け、毎月第2、第4水曜日はカラオケ、第2、第4日曜日はサウーデ楽団での生演奏による歌唱活動を行っている。
日本の歌手・五木ひろしの大ファンで、『長良川艶歌』『渚の女』のほか、美空ひばりの曲も好きだと話す節代さん。歌の魅力について聞くと、「歌詞の意味を考えながら歌うのが一番大事」と話し、「お陰様で今は幸せな婆さんです」と笑顔を見せた。
(2022年10月取材)
月刊ピンドラーマ2022年11月号
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