アルチュール・ド・ゴビノー(フランス人作家・外交官、1816-1882) ブラジル版百人一語 岸和田仁 月刊ピンドラーマ2022年12月号
2007年から14年にかけてロングベストセラーとなった、ラウレンチーノ・ゴメスの歴史三部作(『1808』2007年、『1822』2011年、『1889』2013年)はジャーナリスティックな読みやすい文体で読者を惹き込んだ歴史作品であったが、ここには1889年の共和派クーデターで皇帝の座から追放されたペドロ二世に関する様々なエピソードも“面白可笑しく”書き込まれていた。例えば、1825年生まれのペドロ二世は、聡明で語学力も秀でていたが、せっかちで宴会・食事会となると、いつも自分だけで早食いしてしまい、食べ終わると同席者を無視して離席してしまうため、食事に招待される客は、テーブルに供されたご馳走に手を付けられず、近くのレストランで食べるしかなかった。あるいは、皇帝の好きな食材はチキンで、これは祖父(ポルトガル国王ジョアン六世)と同じだった、但し、祖父はバター焼きを好み、ペドロ二世はカンジャ(チキン雑炊)が好物だった、とか。あるいは、ハプスブルク家の血筋をひく年上女房テレーザ・クリスチーナを欧州皇族から“押し付け”られた時は、彼女があまりにも不美人で背も低かったので、結婚当初はしばらく“夜の生活”を拒否した、とか。こんな話が“きちんと記録されていた”のも、ブラジル皇帝が当時の国民からそれなりの尊敬と親しみを持ってみられていたから、ともいえるかもしれない。
そんな皇帝ペドロ二世と親交を結んだ人物の一人が、フランスの外交官にして作家として有名なアルチュール・ド・ゴビノーであった。『人種不平等論』(『諸人種の不平等に関する試論』初版1855年)によって後のナチスの人種主義・アーリア人種優越論確立に多大な影響を与えることになる彼が、フランス公使として首都リオデジャネイロに駐在していたのは1869年4月から1870年5月までの14か月間であった。その期間中、一週間で最低二回は皇帝と会っていたというから、延べにしたら多分100回くらいの懇親会を続けたと思われるのだ。
ちなみに、ゴビノーがブラジルを離れてからも10年以上も手紙のやり取りは継続していた(正確には1870年7月24日付けから最後の手紙1882年8月12日付けまで)から、お二人の関係は親友にして心友であった。
劣等人種と決めつけていた黒人が住民の多数を占めるブラジルを忌み嫌ったゴビノーとしては、欧州皇族の“正しい血統”の継承者であるペドロ二世のみが、“真っ当な白人種の文明人”として尊敬できたのであり、黒人との混淆=人類の退廃・退化と確信していたゴビノーは、国からの命令でやむなく駐在したブラジルから一日も早く逃げ出したかったのであった。
冒頭に引用したのは、ゴビノーが友人へ書き綴った手紙の一部をいくつか列記したものだが、いずれもジョルジュ・レイダース教授(1896-1980)の著書『ブラジルの誠実なる敵対者–ブラジルのゴビノー伯爵』“O Inimigo Cordial do Brasil – O Conde de Gobineau no Brasil“ (Paz e Terra 1988)(フランス語原著は1934年刊)からの孫引きである。
尚、今年(2022年)8月に亡くなったマルチ芸人作家ジョー・ソアレス(1938-2022)は、1880年代後半のリオにシャーロックホームズが出現した、というストーリーが展開する歴史ミステリー小説『ベイカー街のシャンゴ』(1995年、邦訳『シャーロックホームズ リオ連続殺人事件』)の最終章で登場人物の病理学者ミレット教授に“ゴビノー讃歌“を語らせている。当時最も著名であった人類学者ニーナ・ロドリゲス(1862-1906)をモデルとしたと思われる同教授の言葉を通じて、当時のブラジル人エリート層の人種観を示す、ジョーの筆さばきを復習するためにも、この部分を引用しておきたい。
月刊ピンドラーマ2022年12月号
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