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島津家「えー、SNSで自己アピやってないの?それだと滅ぶくない?」(薩摩藩から学ぶシリーズ)

こんにちわ。ぴくむんです。

私は、
小さい頃から実生活で役に立たない学問ばかり教えられる。
「現代社会でダイレクトに役に立つ学問がない」
研究は、勉強の醍醐味であるのに大多数の人がやっていない。
「大多数の人は研究をする機会がない」

ことに対して疑問を覚えていました。そこで、

国なんてあてにせずに
自分の力で「実生活に直接役に立つ学問の確立」することや、
大学に行かなくても「誰でも研究できる環境の整備」する活動を始めようと思いました。

この記事では、「実生活に役に立つ学問の確立」の一歩として、薩摩藩の歴史から自分フィルターバリバリにかけて、薩摩藩から学ぶシリーズとして記していきたいと思います。今回の記事は、薩摩藩のパリ万博博覧会への対応から重要な教えを抽出してみました。

それでは、よろしくお願いします。


鹿児島旅行に行った時に、明治維新記念館を訪れ「維新を歩く(1)」という本を手にした。この本では、「なぜ薩摩が明治維新で中心的な役割を果たせたのか」について論じていた。

この本には、「薩摩藩が中心的な役割を果たせた」要因を多岐にわたって解説しており、その一つとて、「パリ万博博覧会へ日本政府とは別に薩摩として参加した」ことが触れられていた。

この事について、思考を巡らすと重要な教えがあったので記す。

博覧会の歴史について調べてみた。

昔は時の支配者たちが財宝や戦利品を展示することによって自らの権勢を誇示する手段であった博覧会が、今では平和の象徴として、そして世界各国の人たちの交流の場となりました。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hakurankai/banpaku.html

平和な現在博覧会は交流の場と言われているが、本質というのは失われることはないので、博覧会は「自らの権勢を誇示する」という機能は失われていないと思う。


恥ずかしい話、私は「権威とかどうでもいいだろ」派だったのだが、物事をよくよく考えてみると、それはちょっと社会を生きていく上で厳しい考え方なのかも知れない。
「権威とかどうでもいいだろ」派というのは、一人で生きていくことが前提もしくは、今まで生きてきた中で周りの人間に恵まれてきたから成立する考え方だと思う。

もし、人間が2人以上いるのであれば、そこに「何かしらの関係」が生まれる。
その「何かしらの関係」において重要な役割を果たしてくるのが、飴と鞭である。日常生活で我々は意識しないが、たわいもない雑談でも面白ければ飴と分類されるだろうし、イジられて肩パンされるのであればそれは鞭と分類してもいいと思う。どっちが渡す側でもらう側か、その割合の定量化は難しいので一旦そこはおいておく。

ここで私が主張したいのは、
人は人と接する時に「飴と鞭」というのが嫌でも発生する
という事である。

そして、人間は人間とあった時に、この人がどのくらいの
飴鞭力 (飴と鞭を使いこなせる能力)
を持っているかを見定めようとしている。

これは、ほとんどの人が否定できないだろう。

自分以外の他人に接する時に、「あ、この人は面白いひとだ、」や「こいつは嫌なやつだ」とか様々な感情を抱くはずである。
そして、それが自分にとってメリットがあれば近づくし、デメリットだと思えば遠のいていく。

これは
「飴鞭力」がある人間であればあるほど人が集まり、地位名誉財産が潤い
「飴鞭力」がない人間人間ほど人が集まらないので地位名誉財産から遠退く
といっていいだろう。

つまり、私が言いたかったのは、

「権威とかどうでもいいだろ」派は、
人間が生きていく上で必要不可欠である人間関係の超重要パラメータである「飴鞭力」を軽視しており、このような考えは最終的に地位名誉財産から遠退く。

一応例外を挙げていくが、「権威とかどうでもいいだろ」派の中には、超がつくほどのユニークなスキルを持っている人間がいる。このような人間は、存在そのものが「強烈な飴」になるため周りは放って置かない。このような人は、別に何してても生きていけるので、権威名誉限らず、全てがどうでもいいと言えるだろう。

世界はそれを理解しているのかわからないが、この世には「見せしめ」がある。

これは、悪いことをした人を偉い人がひどい目に合わせて、それを大衆に見せびらかせる行為である。「見せしめ」をすることにより、偉い人が大衆に対して「飴鞭力の鞭力」を誇示する事により、偉い人の地位名誉財産の繁栄につながる。

逆なパターンで言えば、偉い人が良い行いをした人に対して、褒賞を与えたりする。これは「飴鞭力の飴力」を誇示と言えるだろう。このような行為によって、地位名誉財産の繁栄につながると言えるだろう。

身近な例でいうと
「鞭力」として
有名人が一般人のツイートに噛み付いたり、某インフルエンサーが盗撮された事に激怒しその影響力を使い盗撮した人間を晒しあげたりする出来事があった。
これは一つの自分の権威を誇示する「鞭力を使った見せしめ」と言っていいだろう。
「飴力」として
会社での給料がそれに対応するだろう。社員の働きに応じて、報酬が支払われる。

つまり現代では、
「鞭力」が欠ければ舐められ不利益を被ったり、「飴力」が欠ければ人は去っていく傾向にあると言っていいだろう。

ここで話を戻すが、

博覧会は「自らの権勢を誇示する手段」であるといった。
これを私なりに言い換えると、
「博覧会は、自分がもつ「飴鞭力」を自分以外の人間に対して見せしめる行為」
である。

先ほども述べたが、パリ万博博覧会へ政府とは別に薩摩として参加した。
言い換えると
「薩摩は、日本政府とは別に他国に対して「飴鞭力」の見せしめ」を行なったのである。

当時の日本に他の先進国に見せしめるものがあったのかと疑問に思うかも知れないが、薩摩の出品物は「薩摩焼、竹細工品、茶、砂糖、泡盛(米焼酎)」であった。
言われてみればわかるが、科学分野において当時の日本は完全に話にならないレベルで遅れていたかも知れないが、日本は実用品や飲み食べ物においてはレベルが低かったとは思わない。結果として、実際欧州に受けていたという事実がある。

このように薩摩は政府とは別に「飴鞭力」を見せしめることにより、イギリスの対日政策を幕府よりから薩摩・長州寄りに転換させる事に成功している。
このような積み重ねが明治維新に繋がったと言ってもいいだろう。


この「飴鞭力」の誇示は、現代社会を生き残る上で非常に重要な考え方だと私は思う。

上の記事をはじめとして、アピールの重要性を説いている人はいっぱいる。

地位名誉財産をはじめとした何か対人関係で優位なものを得ようと思うのであれば、「飴鞭力」の誇示は避けては通れない。

近年は、ネットワーク革命により誰でも簡単にネットに何かコンテンツを上げられることが出来るようになった。人によっては、それを承認欲求として笑うかもしれないが、よくよく考えてみて欲しい。
なぜ、我々は承認欲求を持っているのか。

それは人間が生き残るために、人類が作り出した発明である。

なぜ現代だけそれが例外だと言えるのか。もちろん、現代は食糧という観点では豊かになった。しかし、毎年人間関係が希薄化し絶望死を選んでいる人もいるのもまた事実である。もし、承認欲求を満たすために活動していたら、このような人たちの人生も多少は違う未来があったと思う。
承認欲求を馬鹿にしてはいけないと私は思う。


最後に、まとめとして我々が決して忘れてはいけないことを述べる。

それは、「自分がもつ「飴鞭力」を自分以外の人間に対して見せしめる行為」をサボってはいけない事である。

人生のあらゆる場面にて、人は何かしらの団体に所属する。それは、学校かも知れないし、企業かも知れないし、友人だったり、家族かも知れない。
その中で超重要なのは、「誰が誰に対して「飴鞭力」を見せしめているか」を観察することである。

そして、我々が見抜かなければならないポイントは

その「飴鞭力」を管理している人間が、見せしめを怠ったり「飴鞭力」そのものを軽視していたりして、「飴鞭力」を将来失う可能性があるかどうかである。
「飴鞭力」の失墜は、地位名誉財産の失墜に直結する。

もし、「飴鞭力」を管理している人間が頼りなければ、自分で「飴鞭力」の誇示をやっていかなければならない。


飴鞭力」の誇示のやり方は現代社会においてSNSを駆使すれば、とてつもなく簡単である。

自分が作った何かをSNSにアップロードすればいいだけである。
より多くの大衆に見せしめるためにSNSをバズらせるテクニックは山ほどあるが、テクニックというのは本質ではない。

重要なのは、
SNSに何かをアップロードして地位名誉財産を獲得し生き残るために、自分の「飴鞭力」を見せしめして、権威を誇示することである。

そして、「飴鞭力」を見せしめをする際に、
もし何かの分野において負けていてもそれを負い目にして見せしめを辞めてはならない
あの時の薩摩のように、科学分野で負けていても、それ以外で見劣りしない分野のものを出して、堂々としてればいいのだ。

技術力や経験で負けているかも知れないが、見せ方、丁寧さ、まとめる力、やる気、こまめに発信する力、は負けませんとかその程度でいいのだと思う。
さらに言えば、もしスキルがトップレベルでなければ、自分の飴とトップレベルのスキルを交換して何かできませんかと交渉する機会が生まれる。

このような取り組みを続けていると、誰かがその「飴鞭力」に引き寄せられ、色々取引をしてくれて、権威につながり、あの時の薩摩みたいに滅びゆく運命だった日本を救ったように、我々にも何かいいことが起こるかも知れない。

以上。

いかかがだったでしょうか。

薩摩藩の幕末の動きから、重要な教えを抽出してみました。

私がこうやってnoteに投稿しているのも、
「自分がもつ思慮深さという「飴鞭力」を見せしめる行為」
と言えると思います。

noteの記事をまとめることにより、私が目指している「オリジナル学問」への足がかりとなり、出品物として「オリジナル教科書」を出品できるようになり、権威につながったら嬉しいなぁと思います。

あなたは、薩摩藩の歴史から何が学べると思いますか?
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