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「人間失格」を読み解く【太宰治】
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この記事はfufufufujitaniさんの次の構成読み解きを前提に、私が一部解釈を追加していくものです。また、「太宰治の支那事変批判」の内容につきましては、先立って指摘して下さったFさん、ありがとうございました。重要な視点と判断致しましたので、ここに纏めさせていただきます。
本文へはこちらからどうぞ。
「食事とは儀式」
人間失格「第一の手記」に、次のような記述があります。
これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛みながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。
fufufufujitaniさんの分析によって、人間失格は日本と天皇について描かれている小説であることが明らかになりました。これは「第一の手記」中にて「万世一系」という形容がなされていることから確実でしょう。ではこの記述は一体何を意味するのか。つまるところ、これは新嘗祭と大嘗祭を意味しています。
十一月二十三日に宮中三殿の近くにある神嘉殿にてニニギノミコトの子孫・体現者である時の天皇が五穀の新穀を供えられ、かつてニニギノミコトに稲穂を授けた天照大神と共にこれを聞こし召す(食する)。これが新嘗祭であり、天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭が大嘗祭です。
さて、先の引用の周辺の記述を読んでみましょう。「十人くらいの家族全部」が「ただ黙々と」、「実にみな厳粛な顔をして食べて」います。家族全員、つまりその食事の儀式に、世代間の断絶は存在しない。この条件を満たすものは恐らく新嘗祭と大嘗祭のみと思われます。
アンチキリスト教
太宰はよく小説内に聖書の一節を引用したりと、西洋文化の中心であるキリスト教と向きあった作家でした。日本の西洋文明吸収のためにはこの努力が是非とも必要だったのです。「駆け込み訴え」もユダとイエスの話ですし、実は「斜陽」もキリスト教の要素を含んでいます。
そしてこの「人間失格」でも、キリスト教に関係すると思われる記述が散見されます。まずはこちらの引用をご覧下さい。
自分には、禍いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負ったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。(第一の手記)
この「十個の禍」とは何なのでしょう。天皇について書かれている小説なので神道の教義の可能性も考えられますが、「大祓詞」などに見られる「天つ罪・国つ罪」はそれぞれ八種類・十四種類であり、条件を満たしません。
ではこの文章の前後にのみ「隣人」という単語が散見されるのは何故でしょうか。恐らく太宰は「人間」とうう単語と「隣人」という単語を意識して使い分けています。となると、「隣人への愛」を説いているキリスト教に関する記述だと読むことができます。よって「十個の禍」とは、「出エジプト記」に記載されている、イスラエル人を奴隷状態から救出するためGODがエジプトへもたらした十の災害のことなのです。
そして主人公は「隣人の苦しみ」がわからない。その結果、彼は「道化」を演じるようになる。「一言も本当のことを言わない」、つまりこの小説には裏がある、だからそれを読めと太宰は言っているのです。そして「道化」とは、「私」を一切表に出さず、「公」のみの存在として振る舞うこと。つまり天皇であり、裏を返せばこれはキリスト教を見限る宣言のようなものとも読むことができます。
その後主人公は淫売婦に「マリヤの円光」を見ますが、これは女性に目をつけられる原因になり、結果主人公を苦しめることになります。シゲ子に対しおどおどする場面も以下の引用の通りです。結局太宰にはキリスト教を信じ切ることは不可能だったようです。
自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の笞を受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。(第三の手記・一)
支那事変批判
第三の手記の二で、主人公は足の不自由な薬屋のおかみからモルヒネを入手し、中毒になります。fufufufujitaniさんが解説されていた通り、足の不自由なおかみとは不十分な国家、中華民国です。中華民国から主人公(天皇、または日本)はモルヒネを購入します。出費が重なり中毒になり、主人公はボロボロです。持久戦で日本は中華民国に追い詰められます。モルヒネはつまり戦争の比喩と考えて問題ないでしょう。
支那大陸は広大な土地です。だから中華民国は持久戦に強かったのです。援蒋ルートからの欧米の支援もありましたが。それでもあの広大な国土を相手に、休戦のタイミングを一切考えず戦線を拡大するのは失策だとしか言いようがありません。つまり太宰はここで支那事変での日本の行動を批判しているのです。
そしてその後、堀木(アメリカ)が「悪魔の勘で嗅ぎつけたみたいに」現れ、優しい微笑み(原爆)を投下します。こうして日本は「完全に打ち破られ、葬り去られてしまったのです。」
「神様みたいないい子でした」
人間失格の物語はバアのマダムによって締めくくられます。終始鬱々とした物語(実は日本と天皇の歴史)は最後の最後、この一言によって肯定されるのです。
ここでタイトルの「人間失格」が活きてきます。「天皇陛下は他の人間のようにはなられなかった。だからこそ我々にとっては間違いなく神様なのだ。」太宰は恐らくこう言いたかったのではないでしょうか。
これは明らかに昭和天皇に「人間宣言」をさせようとしたGHQに対する挑戦です。(ただし所謂人間宣言の中身の文面は現人神による五箇條の御誓文を引用した日本復興への祈りの言葉でした。日本におけるカミと西洋のGODは全く違う観念です)だからこそ、太宰は検閲に掛からないようにこのような表現をしたのではないでしょうか。GHQによる検閲のように、言論統制は往々にして優れた比喩的表現を用いた文学を生み出す土台となるのです。
<追記>
竹一による主人公の未来の予言。
これはfufufufujitaniさんの読み解き通り聖徳太子(未来記)のことですが、同時に「源氏物語」の要素を含んでいます。
「桐壺」の、高麗の人相見による、源氏の未来の予想がこれにあたります。
ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。
主人公の人生がGODに対する神道の戦いであることは、ここにも示されています。
fufufufujitaniさん曰く、主人公の父親はGODでした。つまり「マリヤの円光」は母の面影、ということになります。源氏物語と同じですね。
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