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【感情紀行記】沈黙のコンセンサス

 常識や日常における当たり前はどこから来るのだろうか。そして、いつ、その常識に馴染んだのだろうか。自分には、時々驚くような発言をする常識のない後輩がいる。

 その後輩は高校生の時、「ボディソープは体に使う、シャンプーは髪の毛に使う。リンスは残っている顔に使うものだと思った。」と言っていた。そういうわけで、彼は高校生になるまでリンスを顔に塗っていたようだ。まぁ、一般社会からしたら恐るべき発想による、恐るべき行為だ。しかし、その後輩のリンスを顔に塗るという当たり前はいつの日か形成され、気づくことはなかったわけだ。よく考えてみれば、製品を作った人による正解があるこの問題だが、「リンスは髪の毛に使うものだよ。」なんて誰かに教えてもらったことがあっただろうか。自分の記憶を辿る限り、ない。自分も一歩間違えれば、豊かな発想のもとに顔に塗りたくっていたかもしれない。

 誰から教わったわけではない、身についている社会の常識らしきものは日常の至る所にある。歯磨き粉の量だって、教わったことはない。どこかから盗み得たか、合理的な道具によって道を逸脱しないように補正がかかっていたのかもしれない。

 後輩は、色々ものを知らないので、少しイタズラをしたくなってしまう。先日はステーキ屋さんで、「ウェルダンとは何か?」を聞かれたので、「ミディアムって意味だよ。」と伝えておいた。そういうわけで彼は今もウェルダンをミディアムという意味で捉えていることだろう。自分の常識や当たり前を疑うことほど難しいことはない。しかし、自分がいつかどこかで何かの恥をかくかもしれない日常を送っていないことを願っている。

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