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教養の欠如、自らへの戒め

ある日、人に軽く映画を紹介してくれと言われて考えた。その時は私が見た中でなんとなく相手も好きそうかもと思った"いつだってやめられる 7人の危ない教授たち"という映画を紹介することにした。まあ適当にね。その少し前に見たばかりだったし、単純なコメディ映画でそこそこ面白く、続編も作られていてきっかけとしても楽しいかなって思ったからだ。その後その人から感想を聞いたのだけど、それは私が映画においてドラッグを含む事象を進んで好むと揶揄するようなもので、映画の評価とはなんら関係のない短絡的な言い様をされた。私がトレインスポッティングが好きだと知っているし、ここのUK filmsにも書いたように"T2 トレインスポッティング"を勧めたことがあるからかもしれない。しかしその短絡的な言われように少し考えてみた。

UK films

先ずその揶揄を誘発するのは自分もよく陥る教養の欠如からの短絡的な発言。それは映画の描かれている時や場所等の世界を理解するという当たり前のことができないからだと思う。そう思って考えると、映画の中の時代、若しくはそれを引きずっている少し後の時代、欧州の一部でのカジュアルなドラッグの蔓延こそが問題で、日常の一部に存在するそれを描いているのではないかということだ。そんなちょっとした思考の不足が揶揄の大きな原因ではないか。また時代性への思慮と共にドラッグというものへの考えの軽薄さもある。1990年代半ばまでは一部の新しいケミカルドラッグの規制は法律的にはグレーで合法だった。それは以前から違法とされていた薬物とは微妙に似ているが違う薬物を精製することにより違法性から逃れていた、その事実を知っているかということ。もちろん日本でも同様で現在は禁止されているケミカルドラッグもその頃は普通に売られていた。日本では違法薬物の問題はとてもタブーなので新聞にも頻繁に載るようなこと、しかも若者に蔓延などとするニュースショーの特集とかも作られていた。その人も私もその時代を過ごしていて目にすることもあっただろうに。欧州でMDMA,X(エクスタシー)というものがレイブ文化の中で流行っていったが、その錠剤は良質なものも粗悪なものもどんどん広まった。また日本でもX(エクスタシー)の流行はあったから前述の報道があったわけだ。だから今回の映画も一部クラブ等が象徴的なものとして描かれているのだろう。まあ知らんけど。というと短絡的だがそういう考察へ至らないのが問題であって、そんな薄っぺらい揶揄をして面白がっているようではその映画の理解にはつながらないと思う、そこが残念だ。
上に知らんけど、とは書いたが、映画自体は普通に見て楽しめるスラップスティック的なコメディで、先に後に公開される"おとなの事情"を見てたこともあり、主演のエドアルド・レオさんのコメディ向きの感じが好きで見た。大学を追われた、追われそうになっている大学教授たちが一旗揚げるというようなもので、イタリア映画の独特の香りもするし、軽く見るには面白いコメディだと思う。

いつだってやめられる 7人の危ない教授たち

この一連の文章を考えてみるとこれは自分自身への警戒でもあると思っている。即ち今回の映画のテーマの一つは良質なケミカルドラッグの亜種を大学教授達が作り上げるというコメディで、また、それはイタチごっこになり得るケミカルドラッグの蔓延への警鐘とも取れる。まあこの文章自体は、そういう考えができず、ただドラッグの映画が好きなのではというレッテル張りはどうなのだろうという愚痴かな。それは言葉を放つ端から腐っていってしまってるのを気づけないという皮肉。これを教養の欠如と言わずなんと言えばいいのだろうか。そしてそれは自分への恐怖でもある。自らの教養の欠如は何かを考えずに軽率に発言してしまうのではという怖さ、そういう懸念は持ち続けていたいし、そういう戒めをいつまで持ち続けられるか、いや、そもそも持ちうるのかという問題もある。そしてどこまでが常識で、どれだけの教養を蓄えないといけないのか、これが自分自身も含め問題だ。だからこそこういうことを考えてしまうんだ。

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