見出し画像

政治的妥当性 - 最近何をしたか 10/4-10/11

LGBTQ+

最近LGBTQ+について考える。それは私にとっての迷宮であったりする。以前私の赤のこと(コミュニストではないよ)でLGBTQについて触れたりもしたが、あの頃とは大きく状況は変わった。現在のある意味過剰とも言える性的マイノリティへの理解と理解しろという圧力の中での逆差別。私は芯まで理解しているとは言い難いが、それでもある程度の理解はできていると思うし、もっと理解しようともしている。

現在の流れを色眼鏡で見ようとも思わない、そして糾弾するつもりもない。だが、誰かが少しでも冷静な意見を言い、彼らがそれをネガティブと捉えたとすると、その時点でもう差別者の烙印を押されてしまう。罪であるかどうかは被差別者の気持ち次第の部分も増えているのではないか。そういう物事を判断するのにはしっかり論理構成があるのが普通だが、ただの感情的お気持ちの問題もあると感じる。それも弱者なら当たり前だというのだろうか。彼らの一部はただ理解を求めて活動しているだけだが、一部はそれを拡大し、様々な優遇をされるのが当たり前のように振る舞っている。

私にはクイアや+の部分に至っては性的嗜好だとしか思えないところもある。それはちょっと言い過ぎかもしれないが、それは私がヘテロセクシャルだからではなく、別にその人たちの嗜好も尊重しているが、例えばカレーでは欧風、インド、スリランカ、スープのように、どれが好きかとかと変わらないようにも感じる。それに私はヘテロセクシャルではあるが、創作という世界においてはノンバイナリーだと思うこともある。

他のことでも同様だ。言葉の問題とすれば愛と興奮の違いという、そしてそこがどれだけ重要で、どれだけ区別する事柄なのかとも思ってしまう。それに自認の部分は不確かだ。変わってしまう人もいるという研究結果もあるようで、先天性だからこそ性的指向という言葉を当てはめるべきという人とは違う結果だ。そんなことを考えれば、それはもう何事も超越したような自由ということになる。

自分の中を変えてゆくのもいいし、存在を認めてもらう努力をするのも分かる、差別などがあるのならその是正も必要だ。しかしその差別されていた存在から、現在ではなによりも尊重されるべき特別な存在だという態度を感じ、それに対してどうなのかと思うのだ。その自意識の、存在の尊大さとは何だろう。どんな人間でも突き詰めれば特別なのだろうから。頭の弱い私の迷宮は深まるばかりだ。

BLM

これは以前から感じていたBLMにも通ずるものである。確かに特にアメリカの南部を中心に彼らは虐げられ、同じ人間でありながら奴隷として扱われてきた。しかし欧州でも奴隷制度はあったし、過去のことを考えればそれはイエズス会によって東南アジアに売られていた日本人も同じ、それに欧米人の歴史の中でも戦争に負ければ奴隷となったりもしている。

問題は人間の進歩と近代においての奴隷であり、現在もアメリカの一部では差別が続いるという現状だろう。しかしそれも少しずつ変わってきているようで、現在は被差別者でありながらそれを盾に取り差別者になっていたりもする。または差別されているから権利があると暴れるようなこともある。

また一方で下品な側面もある。ニグロ、ニガーというNワードの言葉は彼らは使ってもいいが、他の人たちは禁止だそうだ。え、why?でもお前ら言ってるじゃんというのは通じない。差別をされている特別な彼らだけの象徴的な言葉なのだろうか。それならば差別をなくそうという現在、その言葉を率先して使うのを止めればいい。非黒人が差別用語として使っていた事実は消えず残っているはずだ、それを自分らは被差別者だから使っていいというのもおかしな話だろう。もちろん私はその言葉を使う気もない。

私の思考がおかしいだろうか、いつもそんなことを思っている。黒人同士でもその言葉を使用するのはダメな場合もあるという。それに黒人も千差万別で、以前からその言葉を使わない人も多いだろう。そう考えれば黒人であってもその言葉をきちんと差別用語として認識すべきだ。だがその言葉を使えない黒人以外の人間に対して、黒人がその言葉を使って煽ったりするのは下品以外の何物でもない。

ポリティカルコレクトネス

どちらも難しい問題だ。ポリティカルコレクトネスという言葉があるが、これらの話は結局その言葉になってしまう。他のこともあるが、それらはまさにそれは政治的に妥当であり、それぞれの本質ではない。そこが一番の問題だと思ってしまう。ポリティカルコレクトネスという政治的妥当性により頭から決めるから歪みや問題が起きるような気がしてならない。そう考えると一人一人の意識を変え、ボトムアップで社会を形成するのが一番だと思う。多少時間はかかるが、それが最良なのではないか。


inner journey

誰かの中を旅できたなら、どういうものが見えるだろう、何を感じられるのか。好きな人なら特にね、見てみたい。例えば親ならどうだろう、自分との違い、子に対する思い。子ならどうだろう、でもそれはあまりよくないことかもしれないね。答えが見えるようなものだから。好きな人ならコミュニケーションで受け取りたくて、親なら積み重ねたものの中で推測するのさ、そして子ならば尊重しあい時を重ねれば分かるかもね。


こころばかり

天使がおりてくるような、ただのその場所。誰もが待ち望んでいるわけでもなく、ただ目に見えているだけ。祝福されるわけじゃない、ただ存在するだけ。近くにいるだけで...そうだ、それだけでいい。単純にただ目の前が開ける朝、有頂天で過ごす昼間、そして夕方になればゆううつになり、夜になれば暗黒だ。相変わらずぐるぐるまわって右往左往、こころばかりがね。



いいなと思ったら応援しよう!