散歩日記 | 随想
哲学者カントは散歩を好んでいたと言われている。いつも規則正しく同じ時間に歩くものだから、時計が狂ってしまったときには、カントの歩く時間に時計を合わせた人もいたという。
本当の話なのか、単なるフィクションのエピソードなのか、私にはわからない。しかし、カントが格率(マイ・ルール)を重んじていたことは、実践理性批判などの著作を読めば明らかである。
カントの文章は難しい。難しいのだが、決して突飛な主張をしているわけではない。常に「ここまでは確実に言える」ということを石橋を叩きながら書きつづっている。
思考の正確さを重視すれば、語り方は抽象的になる。
そして、カントの思考は、とても厳格である。
倫理法則というものは、物理法則と同じく、時代背景や個々人の違いを超えて、普遍性が担保されていなければならない。いやしくも「法則」と名付けるからには、例外はあってはならない。
たとえば、10メートルの高さから1枚の紙を落とすとしよう。同じ条件で作業を何度も繰り返せば、必ず同じ場所に紙は着地するはずだ、というのが、カントの考え方のベースにはある。
もしも、物理法則というものがあるならば、「法則」なのだから、紙の落ち方や落ちる場所は、常に同じ場所になる。もし、法則と呼ばれるものに当てはめて、あるべき姿と異なる落ち方するのならば、それは法則と言えない。
ほぼ正確に予測できたとしても、同じ結果をもたらさない法則ならば、その法則には必ずどこかに欠陥がある。あるいは同一の状態で実験できていないという可能性がある。このような考え方が、カントの実践理性批判の中核にあると、私は思っている。
倫理というものに、仮に「法則」と呼べるような普遍性をもつ法則があるならば、時や場所によって変わってしまうようなものであってはならない。「常に成立」しなければならない。
たとえば、あなたが「嘘をつかない」という格率(マイ・ルール)を立法したとする。格率というのは、あなたが信じる倫理法則だ。法則だから、仮にあなたが立法した「嘘をつかない」という格率に例外があるのならば、「嘘をつかないこと」よりも優先する法則があることになる。
あなたが、相手を傷つけるだろうから、嘘を言ってしまったのならば、「相手を傷つけないこと」が「嘘をつかないこと」よりも、上位にあることになる。だから、嘘をつかないことは、法則にはなっていない。
「嘘をつかないこと」を自らの格率にしたのならば、それに反する行動をとることは許されない。
もしも、「それは極端だ!」というのならば、嘘をつかないことはあなたの倫理法則ではない。
今、私は「嘘をつかないこと」が倫理法則であるならば、という前提で書いた。カント自身は、身の危険を感じるような状態であったとしても、いかなる嘘もつかないことが正しい、と考えていたふしがある。
だが、カントは「嘘をつくな!」ということをあなたにも当てはまる倫理法則である、と主張しているわけではない。
どんなものであれ、倫理法則というものがあるならば、その倫理法則を尊敬せよ!、と言っているに過ぎない。
実際には、誰にも、どういうものが倫理法則であるのか、ということはわからない。わかっているのなら、もはや哲学する必要はない。
「これこそが倫理法則だ!」という格率をあなたが立法したのならば、あなたは、その格率をいつ、いかなるときにも遵守しなければならない。「ケース・バイ・ケースだよね」というのは、格率を尊敬していないことを意味する。
あなたが格率を立法したのならば、その格率への尊敬を唯一の拠り所にして行動する。そして、それは他の人にも妥当するものとして行動する。なぜなら、「法則」だから例外はあってはならないからだ。
カントの倫理学は、厳格主義とか形式主義と呼ばれる。確かに、例外をいっさい許さないから厳格であるし、具体的なことは読者の判断に委ねられていて単なる形式しか記述されていない。
だが、形式だけの倫理学なんてあるんだろうか?
誤解を恐れずにカント倫理学を要約すれば、次のようになるだろう。
①あなたが正しいと思うマイ・ルールを確立せよ!
②あなたが正しいと思うマイ・ルールを確立したのなら、それにのっとり、いついかなる場合も、例外もなく行動せよ!
③あなたのマイ・ルールを支えるものは、あなたの良心のみである。そして、その良心を尊敬せよ!
④あなたのマイ・ルールが、他人にも妥当するかのように行動せよ!
カントに批判的な考え方をもつ人は、何をマイ・ルールにすべきか、というのは、その人の内心の法廷で決するよりほかないために、暴走する危険性があることを指摘する。
たとえば「ユダヤ人を殲滅する」ことを格率として立法し、それを他の人にも妥当する普遍的な倫理法則だと考えてしまったら、歯止めになるものはない、という主張もある。
確かに、カント倫理学において、ある倫理法則が正しいかどうかを判断する場は、その人の「内心の法廷」しかないから。
だが、私は楽観的なのかもしれないが、人を殺すことを心の底から正しいと、自らの「内心の法廷」で判決を下す人はいない、と思っている。
また、カントのいうことが仮に正しかったとして、格率(マイ・ルール)をいかなる場合にも遵守できる人もいないだろうとも思う。
しかしながら、誰からも責められるわけでもなかったとしても、マイ・ルールを破ってしまったときに感じる罪悪感は誰にでもあるだろう。
実際問題として、たとえば「嘘をつかない」という格率を樹立したとしても、守り通せる人は誰もいない。
けれども、格率を破ってしまったときに、「仕方なかったんだ!」と居直るのではなく、破ってしまった自分に対して自責の念をもつことは大切なのではないか?
時間の経過や経験を重ねるごとに考え方が変わることがあったとしても、自らの良心に背くことをしてしまったら、常に反省する心をもつことが大切なのではないか?
少なくても、他人の言葉を咀嚼もせず、鵜呑みにしているだけなのに、みんなが正しいと言っているから正しいのだと思い込むことは哲学的な態度ではない。
他人の言葉を受け入れることがあったとしても、自らの頭で考えることをせずに従うことは哲学ではない。揺れながらも、自らの良心に誠実であること。それがいちばん大事だろう。
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