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ИНК教養講座 | 「哲学する」とは?

はじめに

 哲学という言葉は人によって使い方が異なる。単に人生観を哲学と言ったり、処世訓を哲学と言ったり。あるいは経営哲学のように、単にポリシーまたは理念という言葉の代わりに使ってみたり。
 私にも「哲学とはこういうものです」と明快に言うことはできない。あえて言うならば、「真実を求める行為です」ととりあえずは答えるだろうけれども、「哲学とはなにか?」と問うこと自体が哲学なのかもしれない。
 哲学はこれこれこういうものだ、と言う自信はないが、「これは哲学ではない」と言うことはできる。以下では、「これは哲学ではない」と思うことを列挙してみたいと思う。


論理学は哲学ではない

 哲学とは「論理」を組み立てるものだと考える人がいる。たしかに哲学をするには、論理を無視することはできないが、論理学は哲学ではない。
 例えば三段論法は、どうだろう?
 
泳ぐ生物は魚である。
クジラは泳ぐ生物である。
よってクジラは魚である。

 これは論理的に正しい。では次の例はどうか?

泳ぐ生物は魚である。
私は泳ぐ生物である。
よって私は魚である。

 これも論理的には正しい。しかし、私は明らかに魚ではない。一応人間である。

 論理というものは、単なる形式である。前提が間違っているかどうかということは、究極的にはどうでもいいことだ。前提が正しいと仮定すれば、ある結論を導き出すことができるということを教えるのみである。


哲学書を読むことは哲学ではない

 アリストテレスを読むこと。ソクラテスを読むこと。プラトンを読むこと。スピノザを読むこと。カントを読むこと。キルケゴールを読むこと。サルトルを読むこと。ハイデガーを読むこと。
 哲学するための基礎訓練としては、古典を読むことはある程度必要だろう。一人でどんなに思索しても、先人の残した古典を無視していては、遠回りすることになる。
 しかし、古典を理解すること自体は、哲学することではない。「哲学する」とは自分自身の頭と体を使って、真実に迫っていくことだ。
 哲学するためには、カントを読むことは必要かもしれない。しかし、いくらカントを読んでも、自らの思索がなければ、それは哲学したことにはならない。


古典を読まなくても、哲学的な生き方はできる

 哲学することは、万人に必要なことだとは思わない。哲学せざるを得ない人が哲学すればいい、というのが基本的なスタンスだ。
 それでも哲学してみたいなぁ、と思う人はいるかもしれない。そういう人向けに、日々、哲学する方法を次に書いてみたい。


嘘をつかない生活

 哲学するという行為が真実を求める行為ならば、言行不一致は許されない。それを体で覚えるためには、嘘は絶対についてはならない。
 しかし、「嘘をつかない」ということを日々実践することは至難のわざである。

 親友の娘に会った。どう見ても不細工だったとしよう。こういう時には「かわいいですね😄」なんてお世辞を言ってはならない。
 どう見てもバカそうだ。「お利口さんですね😊」なんて言ってはならない。

 つるっつる頭の社長がいたとしよう。「カッコいいですね」「ふさふさ頭がダンディーですね」。口が裂けても言ってはならない。

 「哲学する」日々はかなりしんどい。
( ; ゚Д゚)(;´Д`)ハァハァ


相対主義に逃げ込むな!

 「哲学する」とは、基本的には絶対的に正しいこと、あるいは、普遍性を追求すること。だから、安易に「人それぞれですねぇ」という言葉を使ってはならない。
 他人と話していて、違和感を持ったときこそ、自らの哲学を深化させるチャンスである。
 ほとんど同意見の場合でも、たいてい小さな差異というものはある。そういう時は、その微妙な差異がなにに起因しているのか、じっくり考える必要がある。


「◯◯すべき」という言葉を安易に使わない

 哲学的な生活をしていると、そもそも安易に「すべき」という言葉は使えない。
 「~である」「~である」という事実を積み上げて言っても、「~すべきである」というためには「命がけの跳躍」が必要だ。「~すべき」という言葉を多く使う人は、たいてい哲学的生活とは無縁の人だ。


「読解力がない!」と他人に言う人は哲学者ではない

 昨日もエラそうに「読解力がないフォロワー云々」とか「空気が読めない云々」とか言っているオバサンがいた。
「あなたがいちばん空気を読めてないんだよ」と私なんかは思ったのだが、共感しているかのような人が意外と多くて驚いた。
 哲学する、とは自分の論理と合わないからといって人を切り捨てることではない。どんなに不愉快でも、言葉を尽くす必要がある。


自分が正しいと思ってはならない

 哲学したいならば、決して自分が正しいとは思ってはならない。
 自分の論理を信じて、相手のことを「読解力がない!」「常識がない!」「不愉快だ!」とののしることは、自ら自分のことを「私どうしようもないバカなんです」と言っているに等しい。
 もちろん、本当にそういうことがないとは言えないが、たいてい、相手がどういう前提をもっているのか、ということをまったく考えていない場合が多い。
 それを「私に嫉妬している」とか「マウントをとりたいの?」とか、自分の都合のよい解釈するのは、断じて知識人ではない。少なくても哲学者ではない。


むすび

 思い付くままに書いてみた。いくら書いても書き足りない。また、書きたい気分になったら書こうと思う。

 ちなみに私は哲学者ではない。控えめに言って「妄想哲学者」である。

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