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「徒然草」第82段を現代語訳・原文・英語訳で読み比べる。

今回の記事は、兼好法師の「徒然草」。

以前、NHKで「白熱教室」という番組があった。サンデル教授の授業が話題になったから、覚えていらっしゃる方も多いと思う。

そのシリーズの中で、「素数の音楽」(新潮文庫)の著者として知られる、数学者のデュ・ソートイ先生が出演されたことがあった。その中で、ソートイ先生が日本の黒川先生から教えてもらったと古典として語ったのが、「徒然草」第82段であった。

今回の記事では、その第82段の後半部分を紹介する。あえて前半を省略した理由は、記事を読んで頂ければ、理解して頂けると思っている。

まず、現代語訳から。

徒然草第82段(抄)

いったいに何でも、みんな完全に整っているのは悪いものであって、しのこしたところがあっても、そのままにしておくほうが面白く、将来性もあるというもんだ。「内裏をお造りになるにも、必ず造りあげないところを残すものだ」とある人が申されましたほどじゃ。昔の賢人の書いた仏書儒書にも、章段の欠けているものが相当にあります。
(*角川ソフィア文庫、今泉忠義訳注)


原文

すべて何も皆、ことのととのほりたるはあしきことなり。しのこしたるを、さてうち置きたるは、おもしろく、生きのぶるわざなり。「内裏造らるるにも必ず作りはてぬ所を残すことなり」と或る人申し侍りしなり。先賢のつくれる内外(ないげ)の文にも、章段のかけたることのみこそ侍れ。

英語
Essays in Idleness
translated by 
Meredith Mckinney,
Penguin Classics

In all things, perfect regularity
is tasteless. Someting left not
quite finished is very appealing,
a gesture towards the future.
Something told me that even in
the construction of the imperial
palace, some part is always left
uncompleted.
In the Buddhist scriptures and
other works written by the great
men of old there are also a number
of missing sections.


蛇足ながら、私の解釈

完全無欠なものというものはない。
欠けているところがあるからこそ、努力する余地があるものである。
同様に完璧な人物もいない。
完璧ではないことを常に意識することで、人間は成長できる。
また、人間がミスを犯すのは当たり前のこと。みんなお互いに不完全な人間だ、という理解があれば、人に優しくできるし、自分自身も成長できる。

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